未払いです。次に私が村費をいかように使っているか。私の出張費を調べなさい。就任以来七年間、私は出張手当も辞退しています。手弁当です。毒消し売りの泊るはたごに泊りこんで、諸々方々を拝み倒して、あれだけのバラックがともかくでき上ったのですぞ。この私に、おくめんもなく、羞しいとは思いませんか。よくも、あなた、何一ツ苦心したこともないくせに、云えたものですね」
「貴意はよく分りました。御説の如くに書類を拝見して私の意見をのべましょうが、君はいささか亢奮しすぎている。私の言葉を一々誤解して聞きとっているように思う。互いに冷静を欠くことなく、よく話し合い、心を合せて村のために働きましょう」
余は羽生助役をなだめ、それからは約一週間がかりで古い書類に目を通した。彼の云う通りである。この村の不景気もさることながら、逆さにふっても血もでない村の財政である。それにつけても、彼の無慾な奉公ぶりは偉とするに足る。彼の東奔西走は一貫して手弁当であった。
彼の怒りはその努力の知られざるに由ってであろう。かく観ずれば彼の怒りもいわれなきことではない。余は知らざりしを恥じた。よって彼に不明を詫びたが、
「しかしだね。予算のないのは分るが、なんとか無理算段して学校の床を張ってやることはできまいか」
余が重ねてかく云うと、彼はまたしてもにわかに険悪な色を目にためて、
「そうですか。おやり下さい。村長。遠慮なく。御気のすむようになさいましよ。村長」
余は村長とよばれると身のすくむ屈辱を味うことを、この時に知ったのである。羽生はこう呟いた。
「しかしですな。いっそ土間の方が火事の心配もなくて安心だ。むしろ教室を床張りにして、宿直室と教員室を土間にしてやればよかったのさ。土間に藁をしいて宿直するのが、あの奴らにはふさわしい」
2
小野マリ子には、羽生のほかにも敵が多かった。そして、羽生を除けば、いずれも敵となるべき明瞭な理由があった。概ねそれは笑うべき理由であったのである。
たとえば根作は一匹の馬を持っていた。何につけても威張ることが好きで、人を下に見たがる男であるが、特に馬には特別のものがあるらしく、俺の馬は日本一だと云いつけていた。するとその子供が根作の自慢をそっくり受け売りに綴り方を書いた。うちの馬は人の言葉が分って返事をするし、楠正成のような忠義をつくすというような綴り方であった。するとマリ子はその末尾に一行の評言をこう書いた。
「今度日本一の鹿を買うようにお父さんにすすめなさい」
十日ほどすぎてから根作が学校へねじこんだところを見れば、それまで気がつかなかったのであろう。彼は馬の口をとって乗込み、
「俺を日本一の馬鹿と云うたな。さてはまたこの馬を日本一の馬鹿と云うたのか。いずれにせよ……」
朝方から夕方まで馬とともにごねていた。そのために学校は一日授業ができなかった。その時からの不倶戴天の恨みがある。根作は何かにつけてマリ子の敵であることを隠さなかった。
また、茂七はばくちであげられたことがあった。この村の悪い習慣で、ばくちを日常の娯楽とする者が少くない。別に貸元親分がいるわけでもなく、ばくち打ちというヤクザを稼業とする者がいるわけでもないが、農民の夜の楽しみがばくちである。年々、目にあまる時に誰かしらあげられる。その年は茂七があげられた。
するとその年の小学校の学芸会に、ばくちの最中にふみこまれてあげられるという劇がでた。ところが、あげられる役が茂七の倅《せがれ》であった。彼は泣いて三拝九拝するが及ばず、後手にいましめられてえんえんと号泣しつつ引ッ立てられるのである。
茂七が怒ったのは云うまでもない。また村民の多数も怒った。なぜなら彼らはばくちの常習者であったからだ。
ところが受持教員のマリ子が云うには、その劇は子供たちが自発的に創作上演したもので、役割も子供同志できめたことだというのである。茂七の倅に問いただすと、彼はうなずいてそれを肯定したばかりでなく、俺が俺のとっつぁま(父)の役をやるべいと勇み立って引きうけた事柄なぞも次第に判明した。思わぬ藪蛇に終ったために、茂七ならびに同類のマリ子への恨みは益々深く根を結ぶに至ったとのことであった。
以上は一例にすぎないが、かくの如くにマリ子には敵が多い。たまたま村に防火用水を設置することになり、それは民家の密集地帯に設くべきものであるがために、村民の声は期せずしてマリ子の家を取りこわして設置すべしと決するに至った。故小野大佐は分家であるために、この村には持ち家がない。遺族は戦争中小さな農家を借家して疎開生活を営んだのである。
余が村長に就任後、期日到来して、小野遺族の強制立退きが実行せられることとなったのである。遺族はマリ子のほかに母と弟の三人にすぎないが、この弟は
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