は子供がナイフで斬りつけたのよ。私だってナイロンの靴下がはきたいけど、ほら、この靴下。敗残兵の靴下よりも貧弱だわね」
「さほどにも見えない。この村では華美の方だね。スカートの代りにもんぺを用いれば靴下はいらない。カスリの着物は綻びもつぎはぎも目立たないものだが、その洋服ではいもりがはらわたをだしたようだ」
「うまいわね。この村の男は東京の新聞よりも表現がうまいわよ。女のあらを探すときにはね。女をやッつけるのが村の男の一生の仕事らしいや」
小野マリ子との初対面はこんな風であった。まもなく宿直の男教員が登校したので余は暇を告げたが、かの男教員は余を見るより百年の仇敵に会えるが如くに詰めより、
「このバラック校舎で今年の冬を越させるのですね。窓ガラスは殆どわれてますよ。見えないのですか。教室の床は土間ですよ。雪がつもれば、教室の中は泥濘になるのだ。そんなところで子供に勉強させられますか」
彼は戸をあけて教室の内部を示した。余はそれには答えずに退去したのである。
余のこの村の生活は老夫婦二人ぐらしであったから、話題もおのずから限られて、不覚にもバラック校舎に床板すらも張られておらぬことを知らなかった。窓ガラスが大方われていることも知らなかった。上長に対してやや行き過ぎの嫌いはあるが、男教員の難詰もいわれなきことではない。余は翌日、羽生助役にこの旨を話して、応急善処をはかる考えであった。
しかるに翌日出勤すると、助役は余を待ちかまえていて、
「あなたは昨日小学校へ行きましたね。女の先生と差し向いで何をしてきましたか。あの堕胎先生と」
彼は思いがけない見幕で詰め寄った。余には理由がのみこめないから、
「この村では村長と女教員とが差し向いで話をしてはいけませんかね」
「あれにたばこをやりましたね。たばこを一個」
「なくて困っていたから、あげたのさ」
「いつもなくて困っていますよ。いつもやったらどうですか。村長ともあろう人が。あの堕胎先生に」
「堕胎先生とは?」
「堕胎した先生だからさ。村の者はそうよんでますよ。誰も名前をよびません。子供まで蔭で云ってますぜ。たばこ一個で身をまかせかねない淫売以下の淫奔女です。あれがこの村では先生ですから、小学校は伏魔殿です」
「伏魔殿? 宮殿かな。あれが。魔王は誰だね」
「元海軍大佐ぐらいじゃ魔王にもなれませんや。戦争にも行けないような海軍大佐じゃアね。何をやっても、たいしたことはない」
余を侮辱するに、これ以上の言葉はないのである。
いかにも余は戦争にも行けなかった海軍大佐であった。太平洋に大戦起るという直前に、余は予備役に編入された。猫の手も借りたいほどの重大な時に当って予備に編入されるとは、よくよく無能と見込まれたものか。まだしも少将に進級しての予備役ならば慰めるところもあったのだが、余は茫然自失、あまりの恥辱に自決を考えたこともあった。
その後、心をとり直して海軍水路部というところに一介の雇として奉職したが、雇であれば予備大佐の肩書も物を云わない。わが子のような中尉少尉に叱られながら、これを修養と心得て、堪えに堪えて終戦に至った。軍人たる者が未曾有の大戦に遭遇しながら、官を解かれ、大戦に参加を許されないとは何たる笑うべきことか。子孫にも語り得ざる歴史。自嘲あるのみである。
羽生が余の最も怖るる言葉を放ったので、余は彼の心事を訝かった。仇敵たりとも多少のいたわりはあろうものを。面と向ってこの言葉を放つからには、よくよくのことがなければならぬ。しかし余にはその心当りがないのである。
「私が小学校へ行ったことが、それほど君の気にさわる理由が分らない。君は婦人にたばこを与えた男が悪人だと考えるような変った習慣があるのだね」
「まア、そうですな。村長が村で名題のあばずれに呼びだされてたばこを与えに出かけるのと同じぐらい変った習慣ですよ」
「時に、小学校のバラック校舎には床が張ってないそうな。ガラスも大半われているが、あれを何とかできないものかね」
「よくもそんなことが云えましたね」
彼の血相が変った。一と思案のていであったが、何事か思い決した様子で、書棚から何冊かの書類を探しだしてきた。
「まずこれに目を通していただきましょう。あれだけのバラックにも私の血がにじんでいるのです。もしも私というものがいなければ、あのバラックすら建つ道理がないのですぞ。どこに金があるか。金がないのに、あのバラックがどうしてできたか」
彼はこう喚きながら、尚も書棚を往復して多くの書類をとりだした。余の机上にはたちまち堆《うずたか》い書類の山ができた。
「まず村費をごらんなさい。いくらの収入があって、いくらの支出があったか。次に小学校新築の特別収入。いくらありますか。そしてバラックにいくらかかったか。まだ約半額は
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