中村地平著「長耳国漂流記」
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)屡々《しばしば》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポロ/\
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こゝに、歴史的事実といふものがあつて、作家が、製作欲をそゝられる場合、然しながら、如何に書くべきか、といふことは、かやうな意欲と同時に忽ち構想されるほど容易なものでは決してない。
歴史小説といへば、歴史よりも小説であるのが当然で、読者は必ずしも資料に忠実であることを要求しないのが普通であり、物語の内容も亦、事実よりも、創作的自由、或ひは思想によつて、変通自在であることが、決して不合理ではなかつた。一昔前までは、それが当然であつたのである。
ところが、文学に、自意識といふものが加はつてこのかた、小説に「事実らしさ」といふものが甚しく要求されるやうになり、しかも、この要求は、読者よりも、作家自身の作家活動の内部に於て、むしろ、劇しいものがあつた。作家は、小説が事実らしさから踏みださぬために、一字一行に心を配り、結局、一行毎に事実らしさはあるけれども、全体として、人性の極めて小さな一部分を描く以上に飛躍することができない。豊富な浪曼精神といふものはありながら、又、卑小な題材にうんざりしながら、一行の真実に忠実であるがために、作家的欲望の多くのものを不当に殺さなければならなかつた。近代文学の負ふた十字架の如きものであつた。
歴史小説に於ても、亦、この十字架をまぬかれることができなかつた。
屡々《しばしば》、現代の浪曼作家たちは、現代小説といふものが事実らしさに制約されて飛躍した人性を描きにくいために、歴史小説に走る。然しながら、そこでも、やつぱり、事実らしさの制約を受けて、自由の空想を走らす余地がない。資料と作家的空想との板ばさみといふ具合で、なにか、シミッタレた感じのする不自由な構想からぬけだすことができない。さういふやうな様子があつた。
歴史小説のこの不自由さに対して、多分、どの歴史小説作者も、活路を見出すために、新らたな方法を欲し、或ひは、探してゐたらうと思はれる。
私は、これに対して、二つの答案がありうると思ふ。一つは、全然、作者の空想を殺した場合。一つは、全然、資料を無視した場合。
私は、中村君の「長耳国漂流記」に、前者の完璧な答案を見たの
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