である。すくなくとも、前者の答案を志す場合には、これ以上に完成された手法の妙を示すことは難しい。読者の如何やうに意地の悪い近代的感覚によつても、この作品に不安定とか、不合理とか、不燃焼といふものを見出すことは不可能であらう。この手法、この形式は、中村君の創作したもので、その功績はたゝへらるべきものでなければならぬ。
 特に、私は、中村君がこの材料に製作欲をうごかされた抑々《そもそも》の始めから知つてをり、資料の蒐集に、実地調査に、材料の整理に並々ならぬ苦心と年月を費したことを熟知するので、今、この独特の形式の創案によつて、却々《なかなか》、小説とは為しにくい資料を充分以上に活かし得た成果に対して、深甚の敬意を払ひたい。あらゆる歴史文学がこの形式で、といふことは言ふまでもなく無理であるが、この材料がこの形式をもとめたことは、やゝ、絶対にちかい。中村君の才腕と勘の良さに驚くのである。

 我々の文学史の伝説によれば、昔、ある作家は、小説を読んで感動し、「嘘だ! 嘘だ!」と叫びながら、涙をポロ/\流してゐたといふ。
 私は、このやうな「嘘」に対して、我々が生来敏感にすぎ、涙を流すことを恥ぢ惜しむことを悲しむ。我々は、このやうな「嘘」に対して、小心であり、警戒的でありすぎる。のみならず、このやうな「嘘」が果して決定的に嘘であり贋物であるか、その研討をまつたく無視して、甚だ軽率に否定しがちなことを悲しむ。
 私は中村君の「長耳国漂流記」に、この「嘘」に対する比類ない潔癖からでたひとつの完成された形式を見出すけれども、私は然し、この潔癖からぬけだし、嘘の泥沼へ真向から飛込むことが、我々の小説に必要ではないかと思つてゐる。
 あらゆる制約を恐れず、浪曼精神の赴くまゝに、たゞ、奔放に。――聡明な中村君に、私は、次に、その答案をもとめたい。



底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
   1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第七号」大観堂
   1941(昭和16)年8月28日発行
初出:「現代文学 第四巻第七号」大観堂
   1941(昭和16)年8月28日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.a
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング