ければならぬと考へる。無意味なものにゲラ/\笑つて愉しむことができないのである。さうして、喜劇には諷刺がなければならないといふ考へをもつ。
然し、諷刺は、笑ひの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上であり得ないが、それが揶揄といふ正当ならぬ方法を用ひ、すでに自ら不当に高く構へこんでゐる点で、物言はぬ諷刺の対象がいつも勝を占めてゐる。
諷刺にも優越のない場合がある。諷刺者自身が同時に諷刺される者の側へ参加してゐる場合がさうで、また、諷刺が虚無へ渡る橋にすぎない場合がさうだ。これらの場合は、諷刺の正体がすでに不合理に属してゐるから、もはや諷刺と言へないだらう。諷刺は本来笑ひの合理性を掟とし、そこを踏み外してはならないのである。
道化の国では、警視総監が泥棒の親分だつたり、精神病院の院長先生が気違ひだつたりする。そのとき、警視総監や精神病院長の揶揄にとどまるものを諷刺といふ。即ち諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。むしろ贋物なのである。
正しい道化は人間の存在自
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