ゐるのですよ。貴方の場合にしたつて、今日は貴方に気があります。さうしてあいつはあの岩角にまたがり、異体《えたい》の知れぬ悦楽の亢奮に酔ひながら、石をだいて貴方の通るのを待ちかまえてゐたのです。殺意だとか罪悪だとかそんなものぢやないんです。子供がパチンコで豚をねらふよりよつぽど無邪気で、罪悪の内省がないのですよ。いぢらしい女です。正体はただそれだけでつきるのですが――」
禅僧の語気には、旅人が呆気にとられてしまふほど熱がこもつてきたのであつた。さうしてそれからどうなつたか、然し旅人の話は村の噂に残つてゐない。
お綱の逸話では、煙草工場の女工カルメン組打の一場景に彷彿としたこんな話もあるのだ。
時は盆踊りの季節。ひと月おくれの八月の行事で、夏の短い雪国では言ふまでもなく凋落の季節、本能の年の最後の饗宴でもある。盆踊りは山の頂きのぶな[#「ぶな」に傍点]に囲まれた神社の境内で、お綱も踊りに狂つてゐた。その日のホセは道路工事の土方で、居酒屋で酒をのみながら、店の老婆を走らしてお綱を迎ひにやつたが、お綱は踊りに狂つてゐて耳をかさうともしなかつた。
さうかうするうち踊りの列に異変が起つた。突然お綱が一人の娘を突き倒して、馬乗りになり、つかむ、殴る、つねる、お綱には腕力があるから、娘の鼻と唇から血潮が流れでた。原因といふのは、お綱が踊りながら女に向つて、お前の色男が俺に色目をつかつたよとからかつたところから、この娘がやつきになつて俺の色男はお妾あがりに手出しをしないよ、そこでお綱がカッとしてこの野郎と組ついたといふ次第であつた。娘の顔を血まみれにしては、お綱が人々に憎まれたのも仕方がなかつた。
五六名の若者が忽ちお綱をとりかこんだ。一人がお綱の襟首を掴んで血塗《ちまみ》れの娘の胸から力まかせに引離したが、お綱はくるりと振向いてサッと片腕をふり男の顔を力一杯張りつけた。それから一足とびのいて、ゲタゲタと腹をよぢつて笑ひだした。張られた男はお綱をめがけて飛びかかつた。右手をとらへて後手にねぢあげやうとしたのであるが、お綱は男の手首に血の滲むまで噛みついて執られた腕をふりはなし、男の胃袋をめがけて激しいそして敏活な一撃の頭突きをくらはせた。ひとたまりもなく倒れる男に馬乗りとなつて、苦悶のためにのたうつ男の首をしめて地面へぐい/\おしつけた。きしむやうな満悦の笑ひに胸をはづませ、無我夢中のていで顔面をなぐり、つねつた。
四五名の若者達は激怒して各々お綱を蹴倒したが、お綱は忽ち猛然と立ち上ると、誰を選ばず飛びかかり、噛みつき、引掻き、なぐりかかつた。もはやその悦楽の亢奮は色情狂を思はせた。淫慾は酔ひのやうに全身にまはり、敏活な動作につれて、満悦の笑声がきしむやうに洩れるのである。蹴倒される、ひとたまりもなく転ろがる。地面へ顔のめりこむほど、てひどく倒されることもあつた。然しはねかへるバネのやうに飛びかかつて行くのである。性こりもなくじやれつく牝犬もこれほどしつこくはあるまいと思はれ、若者達も流石に根負けのじぶんになつて、お綱は淫乱そのものの瞳を燃やして歓声をあげ、若者達の囲みをやぶつて闇の奥へころがるやうに走り去つた。ひときは高く哄笑をひいて。
憎しみにもえ激怒のために亢奮したといひながらそれが色情の一変形であつたところの若者達は、自分ながらしつこさの醜怪に気付くほど野性そのままの衝動にかられ、然しもはや自制の力はなかつたのだが、七八名一団となつてお綱のあとを追ひかけていつた。お綱は居酒屋へかけこんだ。そこには土方が待つてゐた。お綱は土方の卓に倒れた。彼には決して理解することのできなかつた逸楽のあとの満足のために疲れきつた肢体をなげだし、お綱は苦しげに笑ひのしぶきを吐きだしてゐた。若者達の一団が追ひついた。――
甚だありふれた事情が起つた。同時に奇妙な事件であつた。
居酒屋にはホセのほかにも一人の土方がだるまを相手にしてゐたが、彼等はこの土地の鈍重な自然人とは種属がちがつて、流れ者の度胸と機に応ずる才智があつた。二人の土方は立ち上つた。若者達は顔色と言葉を失ひ、あとじさりした。道路へぢり/\さがつていつた。二人の土方も道路へでた。若者達の一団に気転のきいた一人がゐたらここで一言わびるだけで万事無難に終つたのだが、鈍重な気候や自然はさういふ気転と仇敵の間柄ではぜひもない。こんな騒ぎが起つてゐても村は眠つてゐるのである。もとより人家すら三十間に一軒ぐらひの間隔で至つてまばらなものであるが、その住人も山の頂きの踊りの方へ出払つてゐる。赤ん坊と植物と暗闇だけではこの騒ぎも誰知る人があるまいと思ひのほか、生憎の人物がどうしたはづみかこの場に居合はしてゐたのである。禅僧であつた。
異様なさうして貧弱な肉塊が突然土方に躍りかかつた。それが禅僧
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング