と分るまで、若者達の誰一人禅僧の存在に気付いた者がゐなかつたのだ。彼は殴られ、投げだされ、蹴られ、そして冷めたい地面の上であつけなくのびてしまつた。土方は居酒屋へひきあげた。若者達が禅僧のまはりに歩みよると、彼は鼻血を流してゐた。彼は人々の存在にも気付かぬやうに這ひ起きて、長い時間を費して何物かを地上に探し漸く拾ひ当てた物品によつて探し物が眼鏡であつたと人々に分つた。一つの咳も洩らしはせず、それが唯一の念願のやうに、寺院の方へ消えていつた。
 とはいへお綱に対する彼の恋情の純粋さももとより当にはならないことで、だるまの言に順へば、その助平坊主の肉慾ほどあくどさしつこさに身の毛のよだつ思ひをすることもないと言ふのであつた。

 疲弊した村のことで御布施の集りがよからう筈はない。金包みの代りに米とか野菜ですますやうな習慣が次第に一般にひろがつて、禅僧は食ふだけが漸くだつた。
 禅僧は恋情やみがたくなつたものか、お綱の母親(父はもはや死んでゐる)に向つて結婚の交渉をはじめた。禅僧の内輪の生活が次第に栄養不良になる一方の乏しいものでも、貧農の目から見れば坊主は裕福といふ昔からの考へがいくらか残つてはゐる。働き者をとられるとその日から暮しにこまるといふ理由で五十円の結納金、結婚後は月々十円の扶助料といふ条件をお綱の母親がもちだした。一歩もひかうとしなかつた。
 禅僧は思案にくれたあげく、医者のところへ金策にでむいた。医者の方では愈々坊主も発狂したんぢやあるまいかと薄気味わるくなつたぐらゐのものである。
「いつたい貴方、それは正気の話ですか?」
 と、遠慮を知らない医者がずけ/\言つた。
「あの女は金のいらないだるまですぜ。あの女がたつた一人ゐるおかげで、この村の若者や親爺どもは、だいぶ不自由もしのぎいいし金もかからないと喜んでゐますよ。あの女の不身持が普通のものぢやないことは、お分りだらうと思ひますよ。結婚といふ名目であの身体が独占できると思ひますか? 況んやあいつの精神が? 野獣にも精神があるといふならあの女にも精神はあるでせうが、仏力で野獣が済度できますかな。五十円の結納金。十円の扶助料。きいただけでも莫迦々々しい!」
「獣が獣に惚れたんですよ。私だつて貴方の想像もつかない獣ですよ。とにかく獣の方式でここをひとつやりとげてみやうと思つたわけですな。やらない先に後悔してはいけなからうと思ふのですよ」
「禅問答のやうに仰有《おつしや》らないで下さいよ! 五十円の結納金なら明らかに人間の方式ですぜ。獣の方式なら今迄通り山の畑でお綱とねる方がいいでせう。さうして、それ以上の名案は絶対にみつかりつこありませんや。全くですよ! 仰有る通り獣になりなさい、獣に。人間にならうなんて飛んでもない考へ違ひだ! さうして今迄通りの交渉で満足することが第一です」
 禅僧が自ら獣と言つた言葉を医者は面白いと思つた。お綱の畑は村の西と北角の山ふところに十数町の距離をおいて散在したが、お綱の姿を探して段々畑をうろ/\と距離一杯にうろついてゐる坊主の姿を山の人々は見馴れてゐた。言はれた言葉で思ひだすと、飢えた狼のやうに見えた。あまりに生々しく醜怪だと医者は舌打したのであつた。

 然し坊主が自ら獣と言つた言葉は、医者が単純に肯定した程度の生やさしい内省から生れたものではなかつたのである。
 或る黄昏禅僧はお綱と二人でどんよりと澱んだ古沼のふちを通つてゐた。突然お綱の手が彼の腰へ触つたやうな気がすると(実際は触らなかつたらしい)彼はもう古沼の中へ突き落されるのだと思つた。悲鳴をあげるにも喉がつまつて叫びがでなかつた。苦悶のために表情は歪み、足は竦んで動けなかつた。ヒイ/\といふ掠れた悲鳴が喉にうなつた。これだけの物々しい前奏曲があつたために、お綱もつひ突き落す気持になつたのである。それほどの力をいれて突いたわけでもなかつたのに、坊主はあつけなく古沼へ落ちた。水の中での死にものぐるひの騒ぎといつたらなかつたのである。死を怖れる最も大きな苦悶と醜体がかたどられてゐた。坊主のもがいてゐた場所は岸から三尺ばかりのところで、落付いて腕をのばせば子供でも溺れる心配のない場所である。彼が恐らく全身のエネルギーを使ひきつた証拠には、漸く岸へ這ひあがると、這ひあがつたなりの腹這ひの恰好のまま、だらしなくのびてしまつて這ひづることもできなかつた。それを見ると、お綱の眼の光が全く変つた。真剣なものが全身にみなぎり、亢奮のために胸がふくれ、急に顔に紅味がさした。お綱は猿臂をのばして禅僧の襟首をとらへ、ずる/\とひきづつて今度は真剣に古沼の中へ頭の方から押し込んでしまほふとしたのである。禅僧はギャッといふ悲鳴をあげてお綱の片足にかぢりついた。お綱よ、命だけは助けてくれ! 死ぬのは怖い! 禅僧
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