パン街でも四方を拝むぐらいだから、演説の方は益々もって紋切型。
「ワタクシはこのたび立候補いたしました三高吉太郎、三高吉太郎であります。ワタクシの顔をよーくごらん下さい。これが三高吉太郎であります」
と例の如くにやりだしたから、あまり関心をもたなかった花見客もドッと笑って、意外に大きな人だかりになってくれたのは有りがたいが、いずれも酒がはいっているから、ヤジのうるさいこと。よそではヤジのはいらぬところにまで四方から半畳がとんで大賑い。一番うるさく半畳をとばすのが、オモチャのチョンマゲをかぶった酔客である。ところが、これを、よく見ると、先夜寒告が三高を訪れたとき、取次にでてバカ笑いした人相の悪い四十男である。「さては、奴はサクラだな」
なるほど、いかにもサクラに向く人柄だ。花見の場所へ先廻りして酔客に化けているのがいかにも役柄にはまった感じ。ところが、先生本当に酔っているらしく、半畳やマゼッカエシをとばせるばかりで、一向にサクラ的な言辞がない。しかし、それが時宜に適していたのだろう、酔ッ払った聴衆の黒山のような群のなかで、まともにサクラ然とした言辞を吐けば、一そう笑いものになるばかりでなく、いかにもみすぼらしい見世物になってしまうだろう。ともかくゲラゲラ笑われても、たのしまれているのは何よりだ。
「皆さまの清き一票は何とぞ三高吉太郎、三高吉太郎にお願い致しまーす」
と叫んで演説を終ると、ゲラゲラパチパチといくらか拍手も起って、
「よーし。心配するな。オレが引受けた」
「ときに、ここは何区だね」
なぞと声援がとんだほどである。
三高のトラックは花見の中を遠慮深く通りすぎて止った。すると三高は候補者のタスキをはずし、運動員にかこまれて、花見の人群れへ戻ってきた。そして彼らも花の下で一パイやりはじめたのである。
「候補者の花見なんて聞いたことがねえや。いよいよ変だぜ、この先生は」
寒吉もつくづく呆れた。寒吉も弁当はブラさげてきたが、一升ビンの用意はない。当り前だ。仕事のつもりだもの。ところが三高先生の一行はチャンと何本かの一升ビンの用意もととのえてきている。先廻りのサクラもこの地に配しておいたほどだから、ここで飲むために予定してきた一升ビンに相違ない。
「予定はキチンとしているらしいな。すると、もっと手のこんだ予定ができてるかも知れないぞ。いよいよ面白くなってきた」
このお忍びの酒もりへ、さらにお忍びの誰かが合流するだろうと寒吉は考えた。
ところが、やがて合流したのは、例の人相のわるいサクラだけだ。そして間もなく一同酔っ払ってしまったらしい。仲間同士でケンカをはじめたのだ。
寒吉はわざと離れて、顔を見せないようにして監視していたから、ケンカの原因は分らない。いきなり殴り合いが起っていた。殴り合いの一方はサクラだ。彼の目に見えたところだけでは、殴られた方がサクラであった。殴った方は運動員の一人で、三高ではなかった。寒吉が駈けつけた時には、もう人だかりができていた。殴り合いは終っていた。サクラはホコリを払って立ち去るところであった。また、けたたましく笑いながら。
一人が仲間にだかれて泣いている。泣いているのは三高であった。三高は両側から抱くようにして選挙のトラックへ連れ去られた。その泣き男が演説をぶッた候補者だということに気のつく者もいないらしい。ケンカもここが一ツじゃないし、泣き男も彼だけではなかったろう。色とりどりの酔ッ払いがここを晴れと入り乱れているのだ。
三高の一行はトラックで去った。サクラはそこには現れなかった。
三高のトラックはまッすぐ自宅へ戻った。酔ッ払ッて選挙演説はぶてないから、この日はこれで終りらしかった。
三高が泣いて連れ去られる時、寒吉はこれが終りと直感したから、彼が泣いて何を喚いているのかとすぐ後までズカズカ近づくと、彼の喚きは実に人々のオヘソをデングリ返してしまうほど悲痛また痛快なものだった。
「ああ無情。ああ……」
彼はダダッ子のように手足をバタバタふりながら、また喚いた。
「放さないでくれ。ああ無情。ああ……」
そしてトラックへ運びこまれたのである。
「ウーム」
寒吉は思わず唸って敗北をさとった。
「ワタクシは何をか云わん」彼がそれからヤケ酒を飲んだのは云うまでもない。
★
翌日、かなりおそく、彼が出勤しようとして通りかかると、今しも三高のトラックが彼をのせ、家族に路上まで送られて出発しようとするところである。奥方とおぼしき婦人は意外に若くて、善良そうな、ちょッと可愛らしい女であった。赤ん坊をオンブしていた。
「トウチャン、シッカリ!」と云って、赤ん坊に手をふらせた。トラックは走り去った。これを見ると、ムラムラと寒吉の心が変った。ミレンが頭をもたげたの
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