クシと仰有《おっしゃ》る習慣ですか」彼はギョッとしたらしく、みるみる顔をあからめて、
「失礼しました。ふだんはオレなぞとも云ってましたが……」馬鹿笑いの男が部屋の隅できいていて、今度はクスクス笑いだしたので、寒吉は三高が気の毒になった。
「無所属でお立ちですが、支持するとすれば、どの政党ですか」
「自由党でしょうな。思想はだいたい共通しております。しかし、もっと中小商工業者をいたわり育成すべきです。それはワタクシの甚だしく不満とするところでありまして、またワタクシの云わんとするところも……」
 演説口調になりかけたので、寒吉はそらすために大声で質問した。
「崇拝する人は?」
「崇拝する人?……」
「または崇拝する先輩。政治的先輩」
「先輩はいません。ワタクシは独立独歩です。一貫して独立独歩」力をこめて云った。彼の傍に芥川龍之介の小説集があった。およそ彼とは似つかわしくない本である。
「その本はどなたが読むのですか」
「これ? ア、これはワタクシです」
 彼は膝の蔭から二三冊の本もとりだして見せた。太宰治である。
「面白いですか?」
「面白いです。笑うべき本です」
「おかしいのですか」
「おかしいですとも。これなぞは難解です」
 こう云って一冊の岩波文庫をとりだした。受け取ってみると、北村透谷だった。
「学歴は?」
「中学校中退です。ワタクシは、本はよく読んだものです。しかし、近年は読みません」
「読んでるじゃありませんか」
 彼は答えなかった。疲れているらしい。
「何票ぐらい取れると思いますか」
 ときいたが、チラと陰鬱な眼をそらしただけで、これにも返事をしなかった。彼の本心をのぞかせたような陰鬱な目。
「これが本音だ!」
 寒吉はその日を自分の胸にたたんだ。その他の言葉は、みんな芝居だ。ワタクシという無理でキュウクツな言葉のように。
「要するに、裏に何かがある」それを掴んでみせるぞと寒吉は決意をかためた。

          ★

 次の休みの日、寒吉は早朝から待ちかまえて、三高吉太郎のトラックをつけた。どこで何をするか逐一見届けるつもりで、部長を拝み倒して社の自動車を一台貸してもらったのである。どこで何をするか。誰に会うか。何が起るか。彼は部長に笑われてきたのだ。
「裏に何かがあるッて、何がある積りだい?」
「たとえば、あるいは密輸。あるいは国際スパイ……」
「なア、カンスケ君。選挙は特に人目をひくものだ。それに監視がある。選挙違反という監視だ。その監視の目は選挙違反だけしか見えないわけじゃないぜ。わざわざ監視のきびしい選挙を利用する犯罪者がいると思うか。しかし、まア、貴公が大志をかためた以上は、これも勉強だ。やってみろ」
 お情けに車をかしてくれた。何かが起ってくれないと同僚に合わせる顔がない。
 三高のトラックは赤線区域へはいって行った。パンパン街の十字路で演説をぶちはじめたのである。「シメタ!」寒吉の胸は躍った。
 パンパン相手に演説ぶつとはおよそムダな骨折じゃないか。だいたいパンパンというものは移動がはげしいし、転出証明もない者が多く、たいがい選挙権を持たない連中だ。選挙権があったにしても、わざわざ投票にくる筈はないじゃないか。もし投票にくるとすれば、だいたい顔役のいる土地だから、票の行方は一括してきまっていると見なければならない。その顔役にツナガリのない者がここで演説したってムダなことだ。いかに選挙に素人でも、それぐらいのことは分るはずだ。
「なぜ、ここで演説をぶつか」
 その理由がなければならぬ。寒吉は車を隠して近寄り、様子をうかがった。
 三高は例の如くまず四方を拝んで、再軍備反対論から説きはじめている。赤線区域のオトクイ先の尤《ゆう》なるものはアチラの兵隊サンと近ごろの相場はきまっている。戦争あってのパンパン稼業に再軍備反対をぶッても仕様がなかろう。そのせいでもあるまいが、誰も聞いている者がない。したがって何かがあれば一目で分る状態だが、別に何もない。先方には何も起らないが、寒吉の方は多忙である。
「ネエ、チョイト。遊んで行かない?」
「いま、仕事だよ」
「何してんのさ。ギャングかい? アンタァ」
「アイビキだよ」
「ワタシというものがありながら。さア、承知しないよ」
 手をとり足とり、ズルズルとひきこまれる。必死にふり払って、そこをとびだす。次の隠れ場で、また、やられる。どこへ身を隠しても、必ずやられる。おかげで監視は甚だ不充分であったが、彼の目にふれた限りでは全く何事も起らずに三高の演説は終ったのである。
 次にトラックが止ったところはお花見の名所だ。晴天温暖の気侯にめぐまれて、お花見は出盛り。そのド真ン中で三高の演説がはじまったから、大変だ。
 彼はその場所に応じる変化を心得ていない。人影のないパン
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