その戯作者に特別な意味があるのは、小説家の内部に思想家と戯作者と同時に存して表裏一体をなしてゐるからで、日本文学が下らないのは、この戯作者の自覚が欠けてゐるからだ。戯作者であることが、文学の尊厳を冒涜するものであるが如くに考へる。実は、あべこべだ。彼等の思想性が稀薄であり、真実血肉の思想を自覚してゐないから、戯作者の自覚も有り得ない。戯作者といふ低さの自覚によつて、思想性まで低められ卑しめられ羞《はずかし》められるが如くに考へるのであらう。
 そして志賀直哉の文学態度などが真摯、高貴なものと考へられて疑ることまで忘れられてしまふのだが、あそこには戯作性が欠けてゐるといふ、つまりはロマン的性格の欠如、表向きさう見えることが、実は志賀文学の思想性に本質的な限定が加へられ歪められてゐることでもあるのを見落してはならぬ。
 志賀直哉の態度がマヂメであるといふ。悩んでゐるといふ。かりそめにも思想を遊んでゐないといふ。然し、さういふ態度は思想自体の深浅俗否とかゝはりはない。態度がマジメだつて、いくら当人が悩んでみたつて、下らない思想は下らない。ところが志賀文学では、態度がマヂメであることが、思想の
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