としてでなしに、物語として、節面白く、読者の理知のみではなく、情意も感傷も、読者の人間たる容積の機能に訴へる形式と技術とによつて。文士は常に、人間探求の思想家たる面と、物語の技術によつて訴へる戯作者の面と、二つのものが並立して存するもの、二つの調和がおのづから行はれ、常に二つの不可分の活動により思想を戯作の形に於て正しく表現しうることしか知らないところの、つまりは根柢的な戯作者たることを必要とする。なぜなら、如何に生くべきかといふことは、万人の当然なる態度であるにすぎないから。
 然し単なる読み物の面白さのみでは文学で有り得ないのも当然だ。人性に対する省察の深さ、思想の深さ、それは文学の決定的な本質であるが、それと戯作者たることと、牴触すべき性質のものではないといふ文学の真実の相を直視しなければならぬ。我々の周囲には思想のない読物が多すぎる。読物は文学ではない。ところが、日本では、読物が文学として通用してゐるのだから、私が戯作者といふのを、単なる読物作家と混同したり、時にはそれよりももつと俗な魂を指してゐるのかと疑られたりするやうな始末である。
 文学者が戯作者でなければならぬといふ、
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