ういふ効果を考へてゐるのである。
理論は理論でちやんと言つてゐるのだから、その合ひの手に時々読者を笑はせたところで、それによつて理論自体が軽薄になるべきものではないのだから、ちよつと一行加筆して読者をよろこばせることができるなら、加筆して悪からう筈はない。
織田のこの徹底した戯作者根性は見上げたものだ。永井荷風先生など、自ら戯作者を号してゐるが、凡そかゝる戯作者の真骨頂たる根性はその魂に具つてはをらぬ。※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]東綺譚に於ける、他の低さ、俗を笑ひ、自らを高しとする、それが荷風の精神であり、彼は戯作者を衒《てら》ひ、戯作者を冒涜する俗人であり、即ち自ら高しとするところに文学の境地はあり得ない。なぜなら文学は、自分を通して、全人間のものであり、全人間の苦悩なのだから。
江戸の精神、江戸趣味と称する通人の魂の型は概ね荷風の流義で、俗を笑ひ、古きを尊び懐しんで新しきものを軽薄とし、自分のみを高しとする、新しきものを憎むのはたゞその古きに似ざるが為であつて、物の実質的な内容に就て理解すべく努力し、より高き真実をもとめる根柢の生き方、あこ
前へ
次へ
全20ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング