があつて、こゝで彼は大阪の言葉を可能性に於てでなしに、むしろ大阪弁に美を、オルソドックスを信じてゐるから。
 芸術は現実の複写ではない、作るべきもの、紙上の幻影(実在)だといふ、これは鉄則ではないか。彼が、人々の作品の大阪弁を否定するのはよろしいが、そのオルソドックスを自らの作品に於て自ら作つた大阪弁に於て主張せず、実在する大阪弁に見出し主張してゐるのは矛盾である。
 文学は紙上以外に実体をもとめる必要はないものだ。谷崎が藤沢が各々の大阪弁をつくつてよろしいので、それが他の何物かに似てゐないといふことは、どうでもいゝ。
 織田は志賀直哉の「お殺し」といふ言葉が変だといふが、お殺しが変ではなく、使ひ方がヘタなのだらう。お殺しなど、愛嬌があつて面白く、私は変だと思はないし、だいたい作中人物の言葉などといふものは、言葉自体にイノチがあるのではなく、それがそれを使用する人物の性格生活と結びついて動きだす人間像の一つの歯車としてイノチも綾も美も色気も籠つてゐる。独立した言葉だけの美などといふのは、実は作文の領域で、文学とは関係のないことなのである。
 織田が二流文学といふときには、一流文学へのノ
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