ば、大阪は新型好みのオッチョコチョイの如くだけれども実質的な内容をつかんでをるので、東京の芸術が職人気質名人気質の仙人的骨董的神格的なものであるとき、大阪の芸術は同時に商品であることを建前としてゐる。かくの如くに両都市が気質的にも対立してゐるのだから、東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、大阪の名に於て行はれることも、一応理窟はある。
 然しながら、大阪は、たかゞ一つの都市であり、一応東京に対立し、在来の日本思想の弱点に気質的な修正を与へうる一部の長所があるにしても、それはたゞその点に就てだけで、全部がさうであるわけでもなく、絶対のものではない。反逆は絶対のものであり、その絶対の地盤から為さるべきものであつて、一大阪の地盤によつて為さるべきものではない。
 織田の可能性の文学は、たゞ大阪の地盤を利用して、自己の論法を展開する便宜の具としてゐるまでの如くであるけれども、然し、織田の論理の支柱となつてゐる感情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢にさういふ対立の感情的な低さがある。
 それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉に於て歴然たるもの
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