覚と並立しうる強力な思想性をもたないのだ。かういふ俗悪、無思想な、芸のない退屈千万な読み物が純文学の本当の物だと思はれ、文学の神様などと云はれ、なるほどこれだつたら一応文章の修練だけで、マネができる、ほんとの生活をありのまゝ書けば文学だといふ、たかゞ小手先の複写だから、実に日本文学はたゞ大人の作文となり、なさけない退化、堕落をしてしまつた。
 たゞ生活を書くといふ、この素朴、無思想の真実、文章上の骨董的なホンモノ性、これは作文の世界であつて、文学とは根本的に違ふ。つまり日本文学には文学ならざる読物の流行と同時に、更にそれよりも甚しく、読物ですらもない作文が文学の如くに流行横行してゐたのである。戯作性の欠如が同時に思想性の欠如であつた。のみならず、その欠点をさとらずに、逆に戯作性を否定し、作者の深刻めかした苦悶の露出が誠実なるもの、モラルだといふ。かくして、みぢめ千万な深刻づらをひけらかしたり、さりげなくとりすました私小説のハンランとなつて、作家精神は無慙に去勢されてしまつたのだ。
 織田が可能性の文学といふ。別に目新らしい論議ではない。実はあまりにも初歩的な、当然きはまることなので、文
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