田は一向に軽薄ではなく、笑ふ人の方が軽薄なので、深刻ヅラをしなければ、自分を支へる自信のもてない贋芸術の重みによた/\してゐるだけだ。
先頃、織田と太宰と平野謙と私との座談会があつたとき、織田が二時間遅刻したので、太宰と私は酒をのんで座談会の始まる前に泥酔するといふ奇妙な座談会であつたが、速記が最後に私のところへ送られてきたので、読んでみると、織田の手の入れ方が変つてゐる。
だいたい座談会の速記に手を入れるのは、自分の言葉の言ひ足りなかつたところ、意味の不明瞭なところを補足修繕するのが目的なのだが、織田はそのほかに、全然言はなかつた無駄な言葉を書き加へてゐるのである。
それを書き加へることによつて、自分が利巧に見えるどころか、バカに見えるところがある。ほかの人が引立つて、自分がバカに見える。かと思ふと、ほかの人がバカに見えて自分が引立つやうなところも在るけれども、それが織田の目的ではないので、織田の狙ひは、純一に、読者を面白がらせる、といふところにあるのである。だから、この書き加へは、文学の本質的な理論にふれたものではなく、たゞ世俗的な面白さ、興味、読者が笑ふやうなことばかり、さういふ効果を考へてゐるのである。
理論は理論でちやんと言つてゐるのだから、その合ひの手に時々読者を笑はせたところで、それによつて理論自体が軽薄になるべきものではないのだから、ちよつと一行加筆して読者をよろこばせることができるなら、加筆して悪からう筈はない。
織田のこの徹底した戯作者根性は見上げたものだ。永井荷風先生など、自ら戯作者を号してゐるが、凡そかゝる戯作者の真骨頂たる根性はその魂に具つてはをらぬ。※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]東綺譚に於ける、他の低さ、俗を笑ひ、自らを高しとする、それが荷風の精神であり、彼は戯作者を衒《てら》ひ、戯作者を冒涜する俗人であり、即ち自ら高しとするところに文学の境地はあり得ない。なぜなら文学は、自分を通して、全人間のものであり、全人間の苦悩なのだから。
江戸の精神、江戸趣味と称する通人の魂の型は概ね荷風の流義で、俗を笑ひ、古きを尊び懐しんで新しきものを軽薄とし、自分のみを高しとする、新しきものを憎むのはたゞその古きに似ざるが為であつて、物の実質的な内容に就て理解すべく努力し、より高き真実をもとめる根柢の生き方、あこ
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