の奔放な力将棋には、近代を納得させる合理性が欠けてゐるのだ。それ故、事実に於て、その内容(力量)も貧困であつたと私は思ふ。第一手に端歩をつくなどといふのは馬鹿げたことだ。
 伝統の否定といふものは、実際の内容の優位によつて成立つものだから、コケオドシだけでは意味をなさない。
 然し、そのこととは別に私が面白いと思ふのは、八段ともあらう達人が、端歩をついたといふことの衒気である。
 フランスの文学者など、ずいぶん衒気が横溢してをり、見世物みたいな服装で社交界に乗りこむバルザック先生、屋根裏のボードレール先生でも、シャツだけは毎日垢のつかない純白なものを着るのをひけらかしてゐたといふが、これも一つの衒気であり、現実の低さから魂の位を高める魔術の一つであつたのだらう。
 藤田嗣治はオカッパ頭で先づ人目を惹くことによつてパリ人士の注目をあつめる方策を用ひたといふが、その魂胆によつて芸術が毒されるものでない限りは、かゝる魂胆は軽蔑さるべき理由はない。人間の現身《うつしみ》などはタカの知れたものだ。深刻ぶらうと、茶化さうと、芸術家は芸術自体だけが問題ではないか。誰だつて、無名よりは有名がよからう、金のないより、有る方がよい。尤も、有名になり、金を握つてみて、その馬鹿らしさにウンザリしたといふなら、それもそれで結構だけれども、自ら落伍者で甘んじる、たゞ仕事だけ残せばいゝといふ、その孤独な生活によつて仕事自体が純粋高尚であり得るといふ性質のものではない。
 現世的に俗悪であつても、仕事が不純でなく、傑れたものであれば、それでよろしいので、日本の従来の考へ方の如く、シカメッ面をして、苦吟して、さうしなければ傑作が生れないやうな考へ方の方がバカげてゐるのだ。清貧に甘んじるとか、困苦欠乏にたへ、オカユをすすつて精進するとか、それが傑作を生む条件だつたり、作家と作品を神聖にするものだといふ、浅はかな迷信であり、通俗的な信仰でありすぎる。
 かういふ日本的迷信に対して反逆し得る文化的地盤は、たしかに大阪の市民性に最も豊富にあるやうだ。京都で火の会の講演があつたとき、織田は客席の灯を消させ、壇上の自分にだけスポットライトを当てさせ、蒼白な顔に長髪を額にたらして光の中を歩き廻りながら、二流文学論を一席やつたといふ。
 かういふ織田の衒気を笑ふ人は、芸術に就て本当の心構へのない人だらう。笑はれる織
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