がれが欠けてゐる。これの卑小を省る根柢的な謙虚さが欠けてゐるのだ。わが環境を盲信的に正義と断ずる偏執的な片意地を、その狂信的な頑迷固陋さの故に純粋と見、高貴、非俗なるものと自ら潜思してゐるだけのこと、わが身の程に思ひ至らず、自ら高しとするだけ悪臭|芬々《ふんぷん》たる俗物と申さねばならぬ。
大阪の市民性にはかゝる江戸的通念に対して本質的にあべこべの気質的地盤がある。たとへば江戸趣味に於ては軽蔑せられる成金趣味が大阪に於てはそれが人の子の当然なる発露として謳歌せられる類ひであつて、人間の気質の俗悪の面が甚だ素直に許容せられてゐる。
織田が革のジャンパーを着て、額に毛をたらして、人前で腕をまくりあげてヒロポンの注射をする、客席の灯を消して一人スポットライトの中で二流文学を論ずる、これを称して人々はハッタリと称するけれども、かういふことをハッタリの一語で片づけて小さなカラの中に自ら正義深刻めかさうとする日本的生活の在り方、その卑小さが私はむしろ侘びしく、哀れ、悲しむべき俗物的潔癖性であると思ふが如何。
むしろかゝる生活上の精力的な、発散的な型によつて、芸術自体に於ては逆に沈潜的な結晶を深めうる可能性すらあるではないか。生活力の幅の広さ、発散の大きさ、それは又文学自体のスケールをひろげる基本的なものではないか。
文学は、より良く生きるためのものであるといふ。如何に生くべきかであるといふ。然し、それは文学に限つたことではなく、哲学も宗教もさうであり、否、すべて人間誰しもが、各々如何に生くべきか、より良き生き方をもとめてやまぬものである故、その人間のものである文学も亦、さうであるにすぎないだけの話である。然し文学は、たゞ単純に思想ではなく、読み物、物語であり、同時に娯楽の性質を帯び、そこに哲学や宗教との根柢的な差異がある。
思ふに文学の魅力は、思想家がその思想を伝へるために物語の形式をかりてくるのでなしに、物語の形式でしかその思想を述べ得ない資質的な芸人の特技に属するものであらう。
小説に面白さは不可欠の要件だ。それが小説の狙ひでなく目的ではないけれども、それなくして小説は又在り得ぬもので、文学には、本質的な戯作性が必要不可欠なものであると私は信じてゐる。
我々文士は諸君にお説教をしてゐるのではない。解説をしてゐるのでもない。たゞ人間の苦悩を語つてゐるだけだ。思想
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