、僕はわざ/\見物に行つた。違ふのである。あれは当り前のエビの料理だ。この話を大井広介に語つたところが、さうです、あれはエビの料理です。セーザル式何とかの何々といふ名前です――この長たらしい料理の名前を大井広介はこくめいに暗記してゐた。いつたい何のために暗記してゐたのであらうか! あの活動写真を十ぺん見たといふミーチャンはゐるかも知れぬが、あの料理の名前を暗記してゐる筈はない。馬鹿々々しさもこゝまでくると全く凡人の及び難い天才とよばねばならぬ。ミーチャンハーチャン伊勢屋の倅《せがれ》に酒屋の小僧を百人分合せたぐらゐ馬鹿々々しい男である。奇妙な風に秘策をめぐらしてゐるけれども、全然人間並みの思慮がない。こんなケタ外れの怪人物は生れて始めて見たのであつた。
 大井広介の評論もデタラメだ。けれども彼の人物ほどデタラメではない。だから却つていかぬと思ふ。彼の評論にはバルザックの隣に安芸の海が現れ、野球もレビューも忍術も知つてゐることがみんな出てくる。これは非常にいゝ所だと僕は思ふ。文学といふものが孤立せず、生活の全部が文学の中へ現れてくる。いつたい日本の文学者達は、文学のことだけ語り、文学以外のことなど語らぬのが純粋だと思つてゐるらしいが、之は逆だと僕は思ふ。真に文学に生きてゐるなら、生活の全部が文学にならねばならぬ筈、いはゆる文学だけしか扱へぬのは生活の全部が文学でない証拠で、アマチュアにすぎぬと僕は考へてゐる。本因坊秀哉がうまいことを言つてゐる。玄人の碁打と素人の碁打とどこが違ふかと言へば、玄人も素人も同じぐらゐ練習し同じ生活してゐるのだが、たゞ玄人は、三面記事を読んでも相撲を見ても料理を食つても、それを常に碁に結びつけて考へる。生活のすべてを碁に結びつけて考へてゐる。それだけが玄人と素人の違ふ所だ。と言つてゐる。名人の至言と言はねばならぬ。木村名人の相撲観を読んだことがあるが、相撲を将棋の立場から判断してやつてゐた。流石に名人である。
 大井広介の評論には相撲でも野球でも生活の全部が現れ、日本の評論では異例のことに属してゐるが、僕はそれ故大井君の評論が前途に大いなる期待すべき所だと信じてゐる。尤も、彼はまだ甚しく名人には道が遠い。なぜなら、彼が相撲の立場や角度から論じて、文学の立場や角度から論じてはゐないからだ。それどころか、却つて逆に相撲の立場からバルザックを論じた
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