ん知らん言ふとるだけのことぢや。その言ひ方がもう自慢にしとる。女中が沢山ゐたから知らんといふことがあるか。大騒ぎである。掛物を破り、竹刀《しない》をふり廻し、盛大なもので、実に楽しさうである、ちつとも暗くなく、惨めでない。喧嘩禁止令といふものが発令された際にこの家族はどうなるだらう。家は沈黙の咒《のろい》にみたされ、この家族は枕を並べて厭世自殺をとげるであらう。よそのウチでは喧嘩といふと先づ瀬戸物を投げたり割つたりするさうだけれども、あの音響は甚しく非芸術的で心ある人士の決して好まぬところである。蓋し大井家では春夏秋冬休むことなく口論が行はれ高価なる掛物などが破り去られて行くけれども一枚の皿を割つたといふ話をきかぬ。甚だ奥ゆかしいと言はねばならぬ。
中原中也が文学修業に上京の時にはメンコだのノゾキ眼鏡などボール箱につめて之を大切にいたはり乍らやつて来たが、大井広介はカジノフォリーを始め何万枚のプログラムを秘蔵してそれをみんな暗記し、カクテルブックをこくめいに複写して秘蔵してそれをみんな暗記し浅草の刀屋へ註文して立廻りの竹光や槍を何本となく作らせて毎朝夕の食事毎に食堂で鉢巻しめて立廻りの稽古に余念もなく、一日に三十枚ぐらゐづゝ葉書を書き、来客の顔を見れば得たりとばかり一分間に六万語づゝ喋りはじめ三時間目ぐらゐになつてやうやく彼の喋つてゐることが少し分りかけてくる。尤も、僕はウム/\と合の手を入れてはゐるが実はてんできいてはをらぬ。かういふ不思議な人物がどのやうな手法によつてこの世に現れるに至つたかといふことに就ては僕の甚だ知りたいところであるけれども、大井君のお母さんにウッカリ彼の少年時代の教育法など尋ねようものなら、得たりとばかり之又一分間六万語づゝ六年間もたてつゞけに喋られてしまふ。生命にかゝはる問題だからウカツなことはきかれぬ。単純怪奇、手に負へぬ家族達である。
剣劇の俳優、レビューガール、どんな大部屋の大根役者でも大井広介にきけばたちどころに名前が分る。映画俳優、三段目以上の角力《すもう》、真田十勇士、なんでも知つてゐる。僕の住む矢口の渡し界隈にザリガニが繁殖しザリガニ料理は西洋では最高級のひとつだといふ話であるがどんな料理であらうか。僕は辞書を調べたが分らぬ。と物知りのある先生がそれは君「歴史は夜つくられる」といふ映画にでゝくる料理がそれだぜ、といふので
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