り真杉静枝を論じたり、やらしておくと、実に何をやりだすか途方もないデタラメなことをやる。これが又彼のいゝ所だと僕は思ふ。今に文学の真髄を会得した時に、このデタラメさが独自な形をとつて生き返つてくるだらうと思つてゐるからだ。彼は生れついての独断家のくせに、わざ/\糞勉強して埒もない本を読み公式的な評論の仕方を真似たりする。芸術は独断だと僕は思ふ。公式的な批評は甚だスマートでちよつと乙に見えるけれども、実は中味が何もなく、文学に公平だの公正なる批評などゝいふものが在るべき筈のものではないのだ。大井君は独断といふ天与の才を持ちながら苦労して下らぬ公式を勉強する。最もつまらぬことではないか。
大井広介には「ユーウツ」だの「センチ」などゝいふものゝ翳が微塵もない。時々何かに立腹して実に憂鬱ですなどゝ言つてゐるが、いはゆる人性の憂鬱とか虚無とか感傷とか、さういふものに全然縁のないのが大井君である。いつたい文学をやつてをつて憂鬱とか感傷とかと全然無縁だといふこんなべラボーな男が今迄存在したであらうか。今、現に存在する。実際彼の不可思議な性格が文学の上に結晶したら痛快なものが出来上る筈に相違ない。生れてこのかた大自然の風景などには目をくれたこともなく、人のアラを探しだしては大喜びで、彼奴が死んだらこの材料を生かして大追悼文を書いてやらうと虎視タン/\考へてゐる。近代文学の知性感受性などには全然不具者なのだが、だから若し、彼が不具者でない時がくると、近代文学が全然不具者だといふことになる。まつたく、近代文学が彼に分る筈はないのだ。なぜなら近代文学といふものは一列一体憂鬱とか感傷を根幹にして生えてゐる樹木だからだ。然し、近代文学など分る必要はないのである。たゞ、文学が分ればいゝ。さうして憂鬱だの感傷にまつたく縁もゆかりもない彼自らの勝手な文学をでつちあげてしまへばいゝのだ。非常に痛快なものが誕生する筈なのである。そのくせ生粋無垢の純情で、女を口説くことなど永遠にできない男なのだ。彼の性格通りの独自な文学が出来上ると、さしづめ僕などの文学は一番対立する筈なのだが、一日も早く、さういふ風になつて欲しいと僕は思ふ。
近頃郡山千冬が「野球界」に野球を論じ、それを大井広介が愛読したりケシかけたりしてゐるけれども、怪しからぬことである。野球だの相撲などといふものはその道で叩きあげた玄人あがりの
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