だしく群衆を物色しはじめた。そして三河屋の次郎助を見つけると断末魔の声で、
「次郎助や、一番安いのを一升だけ……」
だが、大変耳の悪い群衆は、次郎助へ斯う親切にとりついでやつた。
「いい酒を一樽だとよ!」
諸君、誠実な煩悶にはきつといい報《むくい》があるものだ。斯うして、誠実な村人は一日に二度の大酒盛にありつくことができたのである。が、寒原半左右衛門といへども決して大損はしなかつた。その夜のまばゆい宴席で、彼は得意の手踊を披露することができた。昼の鬱憤を晴らして、類ひのない幸福に浸ることができたのである。
東京で蒼白い神経の枯木と化してゐた私はゆくりなく此の出来事をきいて、思はず卒倒してしまふほど感激した。全く、こんな豊かな感激と緑なす生命に溢れた物語を私は知らない。私はこの話をききながら、私の心に爽やかな窓が展くのを知つた。そして私は其の窓を通つて、蒼空のやうな夢のさなかへ彷徨ふてゆく私の心を眺めた。生きるといふことは、そして、大変な心痛のなかに生き通すといふことは、こんなふうに、楽しいことなのだ! そして、ハアリキンの服のやうに限りない色彩に掩はれてゐるものである。私は生き
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