も気持のいいものである。とはいへ季節が秋だつたので、山もそれから山ふところの段々畑も黄色かつたり赤ちやけてゐたり、うそ寒い空の中へ冷たい枯枝を叩き込んでゐたりした。いはば荒涼とした眺めであつたが、それにも拘らず田舎はいつも長閑《のどか》なものだ。時雨が遠方の山から落葉を鳴らして走り過ぎて行くかと思ふと、低迷したどす黒い雲が急にわれて、濃厚な蒼空がその裂け目からのぞいたりした。鈍い陽射しが濡れた山腹の一部分だけさつと照らしてゐるうちに、もう又時雨が山の奥から慌てふためいて駈け出してくる。丁度さういふ時刻だつた。わが勤勉な百兵衛は平楽山の段々畑の頂上から三段目を世話してゐた。すると、突然谷底の窪地から一つの黒い塊が湧きあがつてきて導火線を這ふやうに驀地《まっしぐら》にせりあがつてきたが、音もたてずに百兵衛の腰へしがみつくと二人は全く一つになつて畑の中へめり込んでゐた。そのはづみに百兵衛は脾腹を強《した》たか蹴りあげられて、秋のさなかへあつさり悶絶しやうとしたが、すると異様な人物は、「とつつあんや、苦しかつたらぢつと我慢しなよ。人は苦しくない時に我慢といふことの出来んもんぢやからな。村は一大事ぢやぞ!」と斯う言つて苦悶の百兵衛を慰めたので、これが倅の勘兵衛であることが分つた。
 このやうな、いはば革命を暗示するやうな悲痛な動揺が、已に収穫《とりいれ》の終つた藁屋根の下でも、樵《きこり》小屋の前でも、山峡《やまか》ひの路上でも電波のやうに移つていつた。実際その瞬間に、ああ此の村はどうなるのだと思はせたに違ひない。村全体が一つの重々しい合唱となつて丁度地底から響くやうに、「斯うしちやあ、ゐられねえ。斯うしちやあ、ゐられねえ」と呻いた。それから、村そのものが一つの動揺となつて、居たり立つたり空間の一ヶ所を穴ぼこのやうに視凝《みつ》めたり、埋葬のやうにゆるぎだしたり、ぢりぢりと苛立ちはじめたりした。そこで、感じ易い神経をもつた山の狸や杜の鴉がどんなに勝手の違つた思ひをしたかといふことは、彼等が顔色を変えて巣をとびだすと突然夢中に走りはじめたことでも分るのである。
 全く、同情ある読者諸兄は彼等の心情に一掬の泪を惜しまないであらうが、彼等は今や一年に一度の、いや、恐らく一生に一度かも知れたものではない山海の珍味を失はふとしてゐるのだ。成程これは残酷だ! 若しも彼等がお通夜帰りに婚礼
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