、私の左手がまだ無意識にバケツを握つてゐたことに気がついた。私は満足であつた。私はこんなに虚しく満ち足りて泣いたことはないやうな気がする。その虚しさは、私がちやうど生れたばかりの赤ん坊であることを感じてゐるやうな虚しさだつた。私の心は火の広さよりも荒涼として虚しかつたが、私のいのちが、いつぱいつまつてゐるやうな気がした。もつと強くよ、もつと、もつと、もつと強く抱きしめて、私は叫んだ。野村は私のからだを愛した。鼻も、口も、目も、耳も、頬も、喉も。変なふうに可愛がりすぎて、私を笑はせたり、怒らせたり、悩ましたりしたが、私は満足であつた。彼が私のからだに夢中になり喜ぶことをたしかめるのは私のよろこびでもあつた。私は何も考へてゐなかつた。私にはとりわけ考へねばならぬことは何一つなかつた。私はたゞ子供のときのことを考へた。とりとめもなく思ひだした。今と対比してゐるのではなかつた。たゞ、思ひだすだけだ。そして、さういふ考へごとの切なさで、ふと野村に邪険にすることもあつた。私は野村に可愛がられながら、野村でない男の顔や男のからだを考へてゐることもあつた。あのカマキリのことすら、考へてみたこともあつた
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