然し気にかかることは、階下にねてゐる女の寝床へ忍びこんでゐないかといふことだつた。草吉の頭は思ひだす、当太郎のゆふべの話は、南国の漁村で、飽くことを知らない海女の寝床へ忍びこむ話が大部分であつたのだ。そのときの思ひありげな話振りを考へてみると、夜這ひの目的をもつて泊りこみ、のみならずそれをほのめかすことによつて変態的な満足を感じてゐたと思はれる節が充分にあつた。
 ――降りてみやう……
 然し草吉はまた躊躇した。疲れに似た放心が、こんな時に遠い涯から流れかかつてくるのだつた。階下へ向けて耳を澄ましてみることが、このとき可能な全てであつた。まさかに殺しはしないだらう? 草吉の心に猥褻な嫉妬が沸きおこり、それが再び複雑な放心に還つてくるのだ。冷静な彼の心が、冷えた興奮のあまりであることが分るのだつた。
 そのとき階下に一つの小さな物音がおこつた。人の立ち上る気配であつた。誰といふことが分らない、障子を開けて歩きだす様子だつた。さうするうちに、わあッといふ塊まりのやうな叫びが起つた。それから確《し》かとききとれない叫喚が原因不明のけたたましい物音と前後して響いてきた。それは弥生の声であつた。
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