、彼は突然羽織袴といふ見慣れぬ風体で現れた。部屋へ通ると、特に弥生に同席を願つておいて、改めてキチンと坐り直したかと思ふと、却々《なかなか》しつかりした口調で幾分早口に求婚の言葉を述べた。それから誰一人挨拶のできないうちに、こんどはひどく落付払つて、一段と声を改めたうへ、自己の懐く人生観といふものを諄々と説き明しはじめたのだ。これが朗誦とか演説とでも言ひたいやうな代物で、まづ立板に水を流すが如しといふか、三十分あまりのべつ口きらずに喋べりまくつたのであつた。
 呆気にとられて控えてゐた一座の面々、漸く話に一段落がついたときには、当太郎の落付払つた一瞥をくらつて矢庭に我に返つたとはいふものの、単に甚しくホッと一息ついた形で、さて改まつて返答を探し直すには充分骨の折れる状態だつた。この様子を見てとると、当太郎はまるで待ち構えてゐたやうに更に一段と声を改め、今度は何やら一層うねうねした高遠な心境を弁じはじめたのであつた。これは正味一時間たつぷりのものだつた。草吉の耳にはプラトンだとかエピキュロス、フッサル乃至はボードレエル、パスカルなぞといふ聞き覚えの名前が、あちらで一つこちらで一つ飛びこん
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