目覚めは衰亡の中へ滑りこむやうに展らかれてくるので、殆んど愉しいものではなかつた。それに目覚めた数分のあひだ、奇妙に不吉なことばかり頭に浮んでくるのであつた。ひとつには理性の失はれた時間のせゐであつたらうか。たとへば肉体を腐せてゆく悪疾の気色の悪い映像であつた。病魔は肉体を黒色にむしくひ、汚水のたまつた脳漿の中を蛆虫のやうに蠢めきまはつてゆくのである。目覚めにそれを瞶《みつ》めてゐる数分のあひだ、然し草吉の心に湧き起るものは不快でもなければ恐怖でもなかつた。全てがひとえに静寂であつた。それを包む全ての心が無のやうであつた。生あるものは不吉な映像それのみであり、それは遥かな虚無の中に生れ出で、虚無を観客にちらめきうつり、さうして冬空の星の如くにそれ自らも凍りついてゐるのであつた。全てが凍るといふ冷静な感じであり、草吉の苦痛も悲しみも、在るといへばそれは確かに凍りついて在るのであつた。
その悪疾は、今は草吉の妻であり、以前は港の売春婦であつた忍《しのぶ》が彼にうつしたものであつた。夫にうつした悪疾のことを思ひだすとき、世間なみの感情を忘れた冷涙の女が、顔をうつむけて涙を流す。
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