力をふるつちやうのよ。女中の被害者も相当あつたわ」
 列車のなかで、まさ子は疲れきつた微笑を浮かべながら、そんな話もした。
「親父が悪いのよ。助平根性と梅毒はうちの血筋なんですわ」
 さういふ話をききながら、草吉の眠つたやうな頭には、堪えがたい想念が蠢めきまはるのであつた。まさ子の肉体は、彼の想念の中に於て、もはや着衣をまとうてはゐなかつた。厳烈な北風が鳴り狂ふ屋根の下、さうしてうねりの高い暗い海の波浪の音にとりまかれながら、肉と肉のもつれ、あるひは憎しみと獣心のもつれるであらう暗い夜の寂寥がせまつてくるのだ。俺はけだものになるのだらうと草吉は思ふのだつた。
 ――他人の自殺…………なんといふ虚しく遠い、殆んど信じることができないやうな、まるで了解もできない空虚な事実がほかにあらうか、と草吉は思ひつづけた。それに比べて蠢めきまはる肉慾の熾烈さは、容積ある熱量となつて、彼の全ての血管をそのとき満してゐることが激しく解るのであつた。日本海岸の侘びしい温泉へ急ぐことが、まさ子の青ざめた傷心を包んだ悲劇的な肉体を、ひときれの思ひやりだにない野獣となつてただ抱きしめるためにのみ、陰惨なる悲願を抱いて急ぐものとしか思はれなかつた。
 さめてゐるのか、眠つてゐるのか、朦朧として分ちがたいやうな大いなる虚しさもあつて、そこには旅愁がひろびろと漂ふてゐた。肉慾とは違つた場所に、裏日本の潮風につながるやうな暗愁が、暗く、うねりの高い海のやうにひろがり、狂ほしく疼く肉慾を悲しいものに思はせたりした。
 ――それもくされ縁だらう…………
 草吉は全てを憎み咒《のろ》ふやうに、また、切に軽蔑するもののやうに、心に荒々しく叫んだりした。
 翌日の早朝、宮内《みやうち》で乗換え、まぢかに海の見える停車場で降りた。そこが鯨波だつた。宮内あたりまでは目覚ましい積雪が視界を掩ふてゐたのだが、海へ近づくにつれて雪は次第にすくなくなり、鯨波では殆んど雪を見ることができなくなつた。荒れ走る狂暴な海風のために、雪は海に近いところへ余り積もることができない。山間地方へ運ばれて丈余の積雪となるのであつた。「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句は、ちやうどこの海に近いあたりで芭蕉の詠んだものであつた。
 宿へ着いてきてみると、ちやうど当太郎は朝食を終つて、海辺へ散歩にでかけたあとと分つた。二人も直ちに海へでた。
 苦るしいやうな曇天だつた。どすぐろい雲が海へ低く落ちてゐるのだ。もちろん佐渡は見えないし、落ちこめた雲にせばめられて、余りにも小さい荒海だつた。まるで絶望の苦痛をみせた小さなどす黒い海、暗い沖にも高いうねりがつづいてゐるし、白い牙がそんな奥手の暗い沖にもちらめくのだつた。磯を歩くたつた一つの人影があつた。それが当太郎であることは、四五町の距離があつたが、すぐに分つた。
 怒濤の音が間断なしに地響きをうつて鳴りつづくので、恐らく狂人の絶叫も一町の遠さまではとどくまいと思はれた。二人は自然に足並を速めたが、絶えず叫びたいとする衝動のせつなさのために、まさ子の足は次第に早さが加はるのだつた。足の速まるにつれて、まさ子の瞼には涙が滲んできた。たうとう堪まらなくなつて、まさ子はひとり駈けだした。お兄さんといふ小さな必死の呟きが、顔ごと吹きちぎつてしまふやうな荒々しい潮風に鋭くさらはれたのを境ひにして、跳ねかへつて砂上に置き残された足駄には見向かうともせず、一方の足駄は夢中のうちに激しくあとへ脱ぎのこしておいて、跣足《はだし》となつてせつなげに走りはじめていつた。まだ充分に三四町の距離はあつたのだ。
 草吉はちらかつたまさ子の足駄を拾ひあつめ、これを片手にぶらさげて、逆にゆつくり歩きはじめた。この機会に改めて海の四方をはるばると眺めやると、苦悶のみなぎつた海の姿も、狂ひたつうねりのままに大いなる不動の静寂を宿してゐることが分るのだつた。草吉の心にも、その荒涼とした休息が、言語を絶した物憂さとなつて、静かに流れてくるのであつた。
 当太郎は草吉と別れた夜の疲労困憊した顔色よりも、むしろ血色がよかつた。
「生れて始めて日本海を眺めてゐたところなのだ」
 と、当太郎は侘びしげな微笑を浮べて、近づく草吉に言つた。
「一昨日までは吹雪がつづいたのだ。昨日一日雨が降りつづいて雪が消え、どうやら今日がはじめて何も降らない空模様なんだよ。吹雪の日もちよつと海の出口まで出掛けてみたが、吹き倒されるかと思はれたほどだつた。呼吸もできなくなるし、だいいち凄い海鳴りが耳もとに唸りまはつてゐるくせに、てんで海なんて見えやしないよ」
 宿へ帰つて湯槽からあがると、当太郎は別人のやうに活気づいた。
「こんな強烈な自然に直面すると、人為的な工作が凡そみすぼらしくなるものだね。一人の人間が生きるも死ぬもあるもんぢやな
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