へて高い叫びをあげながら笑ひだした。ところが笑ひの途中から、急に顔を掩ひ隠して、絹をさくやうに泣きだしてしまつたのだ。
「あたしはとても不幸だわ」
 と、弥生は欷泣《すすりな》きながら言つた。
「あたしのほんとの悲しい気持は誰にも分つてもらへないわ……」
 ところがまもなく泣きやんでしまふと、忽ち浮き浮きと笑ひはじめ、「ふん、ヒステリーだよ」と何の翳もない無邪気な両眼を輝やかせながら呟いてゐるのだ。
「さうだ! 俺が考へてきたとほりだよ。全くそつくりそのままなんだ!」
 と当太郎は喜悦にみちた声で叫んだ。
「ちやうどこんな愉快な会話、たのしい一夜を想像しながら遊びに来たのだよ。すると、そつくり想像のとほりなのだ。まるで思ひのこすことがないくらゐ、気持がはればれしてしまつたのだ。これで気持よく家へ帰つて休むことができるんだよ」
「藪さん、泊つてもいいわよ。さつきはちよつとおどかしただけよ」
 と忍が言つたが、うちでも心配してゐるからと言つて、やがて当太郎は立上つた。
「俺もすこし歩いてみやう……」
 草吉は朦朧と立上つた。
 なにか虚しい霧雨のやうな屈託が降りしきつてゐて、それまでは物を言ふ気持も浮かばなかつたし、人々の話も夢の彼方のやうにしか聞えてこないのであつた。
 草吉は大森海岸の方へ歩きだした。風の死んだ、然し冷えきつた冬空に、月が上つてゐるのだつた。当太郎は草吉の歩く方についてきた。海は満潮であつた。荒いうねりが岩壁にくだけてゐたが、沖は暗く、静かだつた。堪えがたく冷めたい巨大な潮風が吹き渡り、澄みきつた月光が、静かに流れてゐるのだつた。
「みんなくされ縁なんだ」
 当太郎は突然小さく呟いた。
「俺が生きてゐることまで、くされ縁だつたのだ……」
 彼は凍つた甃《いしだたみ》の上へ坐るやうに腰をおろした。さうしてそこへうづくまつた。泣いてゐたのかも知れなかつた。長いあひだ、微動する気配もなかつた。

[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]

 それから数日の後だつた。当太郎の家族から、草吉へ宛てて、長文の電報がきた。当太郎のことで尽力願ひたいことがあるから御足労乞ふといふやうなものだつた。
 出向いてみると、母親ではなく、妹のまさ子が応待にあらはれた。まさ子は静かな微笑を浮かべつづけてゐた。まるで長閑《のどか》な世間話を語りだすときのやうな、暗影のない顔付だつた。まさ子の話はかうであつた。
 あの翌日当太郎は旅にでた。こんどは北国の旅だつた。越後の鯨波《くじらなみ》といふ、日本海に面した名もない町へでかけたのだ。着いた日は海も見えない吹雪だつたといふ。便りの冒頭にそんなことが書いてあるのだ。ところがその便りを読むと、遺書としか思へぬところがあるのだつた。さういふわけで、その晩の夜行列車でまさ子が鯨波へでかけることにきまつたが、当太郎の自殺に限つて家族の手にあはないので、草吉にも同道して欲しいと言ふのであつた。その話のあひだも、まさ子は静かな微笑を浮べつづけてゐた。
「どうせ一度はやりとげてしまふんですわ。度々のことですもの。あきらめてゐるんですけど、できるだけはとめたいんです。とめてみてもはじまらないと思ふことも度々だわ。こんども、はつきり遺書つてほどぢやないんですけど、文面の感じで言ふと、落付いてのんびり温泉にでもつかつて、そのうち気がむいたとき死んでみやうかといつたやうな、そんな感じなんですの。のつぴきならない暗さなんです。莫迦々々しいやうなものですけど、一応はでかけてみずにゐられませんもの」
 とまさ子は言つた。こんな話のあひだも、うすい静かな微笑を浮かべつづけてゐるのだつた。その微笑のものうさに激しい遠さへ運ばれたやうな草吉は、話の方は殆んどうはのそらに聞きながら、暗い庭の片隅にガサ/\とゆらめいてゐる竹藪のひからびた繁みの音を心にはつきり聞いてゐたのだ。
 その夜の十一時、深夜の列車に身を託して二人は上野を出発した。上野駅には一冬のあひだ雪が訪れてくるのだつた。北国の吹雪の中を走つてきた数々の列車が、屋根に窓にかたまりついた雪をつけて並んでゐるのだ。二人をのせた深夜の車は、赤城の麓を通るころから雪の上を走りはじめ、上越連峰の真下をくぐり、土合《どあい》や土樽《つちたる》や石打《いしうち》や積雪量の最も深い雪の下をくぐりつづけて行く車だつた。深夜のために、その雪も見えなかつた。
「あたしのお友達で、うちへ遊びに来てゐるうちに、お兄さんに強姦された人が三四人はあるんですわ。べつに強姦しなくつたつて、うちあければ恋人ぐらゐにはなつてくれる人達なんですわ。お兄さんは女と無駄話をするのが巧いから、あたしのお友達が、あたしよりもお兄さんの仲良しになつてしまふんです。すつかり仲良しになつちやつておいて、順調に話をつけずに、暴
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