あげて顔にあて、はりさけるやうに泣きだした。重い無言の時間が来た。然し二人の男達は立ち去らうとして静かな身動きを起した。するとまさ子は袂に顔を押へた両手のうちから、片手だけを取り離して草吉の袂を押へた。
「お兄さんをとめて下さい。悪い結果になることが分つてるんです。普通の状態ぢやないんです。今がいつと危険な時なんです。お願ひですから、行かせないで下さい!」
「大丈夫なんだよ。心配はいらないのだ」
と、草吉の代りに、当太郎は再び顔をあからめて呟いた。
すると、隣室の襖の陰から、まさ子のそれに甚しく相似の極めてヒステリックな中年婦人の声が響いてきた。
「行かせなさいよ! どこへでも! 母アさんを置いて行けるやうなら、どこへでも行かせなさい! とめるんぢやないよ、まさ子、ああ、とめるんぢやないとも……」
その声は終らうとして涙ぐんだ。一瞬ひきしまつた怖ろしい沈黙がきた。当太郎の蒼白な顔に突然かすかな紅潮がさした。彼はちやうど全身の力をふりしぼつて叫ばうとする小犬のやうに首をのばした。さうして、見えない奥手の気配に向つて鋭く叫んだ。
「母アさん! 大丈夫なんだよ! 心配することはないんだよ!」
然し襖の向ふから返事の響きおこる気配はなかつた。当太郎はなほも叫ばうとする身構えをもつて、暫く棒のやうに直立してゐたが、やがてバラ/\毀れるやうに姿勢をくづした。それをきつかけに二人の男はどや/\ともつれた跫音《あしおと》を鳴らしながら階段を降りた。さうして無言で外へでた。
草吉の住居へ辿りつくまで、二人は全く無言であつた。すでに十一時も近かつた。
疲れきつた当太郎も部屋の光の中へはいると急に生き生きとした色を浮べた。さうして屈託のない少年のやうな饒舌になつた。
「この部屋が好きなのだ」と彼は愉しげな微笑を浮べながら、人々を見廻して言つた。
「旅さきでもこの部屋を思ひだすときが愉しい時間の一つだつたよ。昨日も今日もこの部屋を考へるときが休息の時間なのだ。今夜呼びだしに来てくれないと、やりきれない夜になるところだつたよ」
「冗談ぢやないわよ!」と忍は癇癪の色をあり/\と現はして真剣に叫んだ。
「この部屋で首でもくくられたら、こつちがやりきれやしないよ! うちぢや暫く藪さんを泊めませんからね! 真夜中でも嵐の晩でも帰しちやうよ」
「そんなに度々やれるもんぢやないよ。もう死ねないんだ。俺の自殺なんて全くだらしがないことなんだ。俺は意気地がないのだよ」
と当太郎は少年の無邪気な哄笑に破顔しながら言つた。
「自殺する藪さんつて、ほんとの藪さんぢやないのよ。ほんとの藪さんは単純で無邪気よ。単純な人が人真似に勿体ぶつて複雑さうな顔をすると、死ぬよりほかに恰好がつかなくなつてくるのよ。あたしがさうよ」
と、弥生は急に甲高い声で喋りはじめた。
「ほんとに藪さんに会ひたかつたわ! 今くるか、今くるかと待つてゐたのよ。たうとう泣いちやつたわ」
「ところが俺の方ぢや、君の倍くらゐ会ひたいと思つてゐたのだ」
「ぢや、なぜ一人でこなかつたの?」
「会ひたいことと、会ひに行くことは、まるつきり別のことだよ。ほんとに会ひたいと思ふ人には、会はなくとも会つてゐるのだ。いや、会はない方が、その人のほんとの姿に会つてゐることになるんだよ。顔を見なけりや会つたことにならない人は、心から欲しかつた人ぢやないのだ」
「だつて、あたしの方ぢや藪さんの顔を見なけりや会つた気持になれないわ」
「さうなんだ。だから俺がこうしてのこ/\やつてくる。さうすると――さうだ、会つてみたつて君はたいして面白くもなんともないぢやないか。君は俺を好いてるわけでもなんでもないんだ。それでいいんだよ。だけど、俺がここへ来たのは、君の顔を見たい気持が多かつたのさ」
「さうよ、さうよ。あたしは藪さんが好きなわけぢやないのよ。だけど――藪さんはよく分つてゐるわ! さうよ。ほんとに完全に好きぢやないわ。藪さんがあたしのハズだなんて、考へただけでも笑ひたいことなんだわ」
弥生は白痴のやうな単純そのものの喜悦を眼にみなぎらし、情熱のこもつた甲高い声で叫びつづけた。
「でも、ほんとに藪さんはよく分つてゐるわ! あたしね、藪さんが来てくれないつて、わあん/\泣きだしちやつたのよ。そりや、ほんとよ! 藪さんの来てくれないのが確かに淋しかつたのよ。だけど藪さんが好きなわけぢやなかつたの。でも藪さんがやつてきたら、しよつちうあたしを好いてるやうに仕向けやうと考へてゐたわ。相当のことを考へてゐたのよ」
「さうさ。そんなことは白状しなくつたつて分つてゐますよ。子供のくせに一人前の女ぶつて、今からそんな風ぢや、困りもんですよ。だけどすつかり白状するところは、あんたもすこし可笑しいよ」
「さうなのよ……」
弥生は袂に口を押
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