きとつてくれ。俺もすこし睡むりたいのだ」
 然し三尺四方の床の上へ一杯ひろがつた形は、依然微動もしなかつた。そのまま数秒の時が流れた。彼は突然もく/\と起きあがりはじめた。起きあがつてしまふと、羽目板に両手を支え、暫く俯向いて目をつぶつてゐたが、
「お午《ひる》までねむらせてくれ」
 と独話のやうに呟いておいて、急に振向いて、手探りでもするやうな恰好で動きはじめた。人々の顔は目につかないのか、その方には目をくれず、二階の寝床へあがつて行かうとした。
「顔を拭いて――」
 と忍の叫ぶ声なぞも耳にはいらぬのであらう、ただ夕空の蟇のやうに階段を這ひ登つていつた。草吉はその後ろからついていつたが、汚いものをつけたのか、汚物を漏らしたのか、とにかく悪臭の堪えがたいものがあり、それが草吉の朦朧と痺れた頭に、人の死生喜怒哀楽は汚物の悪臭芬々たるが如く卑小にして醜しといふ感を与へた。
 当太郎は二階へ登ると、いきなり寝床へころがりこみ、頭からすつぽり蒲団を被つた。然し草吉が一緒に登つてきたことを知ると、
「しくじつたよ。もうだめだ。もう死ねないよ……」
 と蒲団の下から先刻と同じ言葉をもらした。ほんとに苦しくはないのか、医者をよぶ必要はないのかと草吉が尋ねると、ほんとに苦しくないのだ、お午まで静かに睡むつてゐたいのだと答へ、やがて顔から蒲団をとりのけて、正しい寝息をたてながら睡むりはじめた。そのときもはや夜は白々とあけはじめており、まだ太陽は昇らなかつたが、仄かな薄光が当太郎のよごれた顔にもかかつてゐた。
 草吉がはじめて便所の戸をひらいたとき、さうしてそこに当太郎の屍体を見出したとき、彼の胸をまづ流れたものは、ここにも一人の愚かな奴、それがまさしく便所の中にころがつてゐるやうに一匹の息絶えた巨大な蛆虫、さうして、なんといふうるさい出来事であらう、といふ考へだつた。
 ところが当太郎の生き返つた今となつて、改めて草吉の胸を流れたものは、ひややかな一つの悲しみであつた。たうてい医《いや》しがたく割切りがたい苦汁のやうな哀愁であつた。それに溺れ、濁水のやうな澱んだ流れに浸つてゐると、ある大いなる静かなものへ、ののしり、いきどほり、躍りかからうとする狂気の心も感じるのであつた。
 長い時間がすぎてから草吉が階下《した》へ降りてみると、二人の女は各々の激しい放心に悩まされてゐた。
「どうし
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