く近寄つて、ちよつと火を貸して下さいませんかなどと言ふ失礼な者は全くゐなくなるのである。必要ならば掏摸《ス》るべきである。他人の静寂を乱してはならない。
又かくすれば人の人相が変つてくる。特に眼付がただ者ならぬものとなる。昨今「飛行家の眼」と言つて彼等の眼付の鋭さが人々の注意を惹くやうになつた。一瞬も油断のならぬ職業だから、自然眼付が鋭くなり、微塵も隙がなくなるのである。神奈川県民の眼付は然し一さう鋭くなり、油断のないものとなる。
眼光人の心を刺殺す如く底に意力をたたへてゐるが、天下の豪傑の眼付と違つて、どことなく冥想的で知的な翳を漂はしてゐる。
自分はかねて我同胞の人相、特に生死不明の眼付に就いては我事ながら悲哀に感じ、多くの忿懣《ふんまん》を懐いてゐるが、試みに毎朝のラッシュ・アワー、これから一日の勤めに出掛けようとする人々が押しあひへしあひしてゐる満員電車に乗つてみれば、この悲しみは忽ち納得ゆく筈である。いい若い者が朝つぱらから一列一体お通夜のやうな顔をしてゐる。突然この人々の一団がお経のコーラスを始めても、ちつとも不思議はないのである。身体は全然隙だらけだし、足を踏まれる
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