我々は京浜電車が蒲田を出て六郷の鉄橋に差しかかると突然用心しなければならなくなる。掏摸《スラ》れると、掏摸《スラ》れた方が馬鹿を見るだけだからである。
 尤も出鱈目に掏摸《ス》つたり掏摸《スラ》れたりするのは、偶然をあてこんで馬券を買ふのと同じやうなものであるから、技能未熟のために現行を発見せられるやからは技能未熟のかどによつて逮捕監禁し、一定期間厳重なる指導の下に掏摸の技術を習得せしめる必要がある。かりにも盗みを働くに当つて看破せられ、他人の平静を乱し、煩瑣な手数をかけるやうなことがあつては多々憎むべき点があるからである。
 かくすれば人の心に油断がなくなる。掏摸《スラ》れるたびに修養をつみ、次第に隙がなくなつてくる。掏摸《ス》る者は尚《なお》一さうの修錬を要し、敏活機敏、心の構へ、狙ひ、早業、鋭利なる刃物の如く磨かれた人物が完成する、県民皆々油断なく、油断のならぬ人物となり、精神高く緊張してかりにも愚かしい人間は旅行者以外には見当らない。
 県民皆々人の孤独なる静寂を乱すことの害悪を知り、慎しみ深く礼節正しくなるのである。公園のベンチにもたれ読書に耽る人のそばへ狎《な》れ狎れし
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