つてやる。
 盗まれた金は諦めのつくものである。貸した金と違つて返らないと分つてゐるから忽ち忘れる覚悟もつき業務に精励する。病的なところがひとつもない。健康に害なく、風俗人情を悪化せしめず、世の安寧秩序を維持する力がある。
 泥棒といふものはただ必要の金銭を我物とすれば足るのであつて、人を殺傷したり火をつけることには何の興味もないばかりか、却つて常々そのやうな野蛮な破壊や煩瑣な出来事を厭ふてゐる。不快に感じてゐるのである。
 枕元に木刀などを用意して泥棒に飛びかかるのを趣味としてゐる人士もあるが、自分は好ましく思はない。平和な世相を好んで悪化せしめる趣味は避けるやうに心掛けたいものである。
 然し貴殿は旧来の偏見にとらはれて、他人の物を黙つて失敬することを悪事也と判断せられるかも知れない。頭脳明晰な人士もこの偏見に限つて疑らないのが奇妙であるが、そのために世人の生活はどれほど歪められ傷められてゐるか知れないのである。
 かりに次の如き場合を想像すれば、貴殿の判断が根柢的に誤つてゐることがお分りにならうと思ふ。

 例へばかりに神奈川県を指定して、この県内に於ては掏摸《スリ》を公認する。
 我々は京浜電車が蒲田を出て六郷の鉄橋に差しかかると突然用心しなければならなくなる。掏摸《スラ》れると、掏摸《スラ》れた方が馬鹿を見るだけだからである。
 尤も出鱈目に掏摸《ス》つたり掏摸《スラ》れたりするのは、偶然をあてこんで馬券を買ふのと同じやうなものであるから、技能未熟のために現行を発見せられるやからは技能未熟のかどによつて逮捕監禁し、一定期間厳重なる指導の下に掏摸の技術を習得せしめる必要がある。かりにも盗みを働くに当つて看破せられ、他人の平静を乱し、煩瑣な手数をかけるやうなことがあつては多々憎むべき点があるからである。
 かくすれば人の心に油断がなくなる。掏摸《スラ》れるたびに修養をつみ、次第に隙がなくなつてくる。掏摸《ス》る者は尚《なお》一さうの修錬を要し、敏活機敏、心の構へ、狙ひ、早業、鋭利なる刃物の如く磨かれた人物が完成する、県民皆々油断なく、油断のならぬ人物となり、精神高く緊張してかりにも愚かしい人間は旅行者以外には見当らない。
 県民皆々人の孤独なる静寂を乱すことの害悪を知り、慎しみ深く礼節正しくなるのである。公園のベンチにもたれ読書に耽る人のそばへ狎《な》れ狎れし
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