く近寄つて、ちよつと火を貸して下さいませんかなどと言ふ失礼な者は全くゐなくなるのである。必要ならば掏摸《ス》るべきである。他人の静寂を乱してはならない。
 又かくすれば人の人相が変つてくる。特に眼付がただ者ならぬものとなる。昨今「飛行家の眼」と言つて彼等の眼付の鋭さが人々の注意を惹くやうになつた。一瞬も油断のならぬ職業だから、自然眼付が鋭くなり、微塵も隙がなくなるのである。神奈川県民の眼付は然し一さう鋭くなり、油断のないものとなる。
 眼光人の心を刺殺す如く底に意力をたたへてゐるが、天下の豪傑の眼付と違つて、どことなく冥想的で知的な翳を漂はしてゐる。
 自分はかねて我同胞の人相、特に生死不明の眼付に就いては我事ながら悲哀に感じ、多くの忿懣《ふんまん》を懐いてゐるが、試みに毎朝のラッシュ・アワー、これから一日の勤めに出掛けようとする人々が押しあひへしあひしてゐる満員電車に乗つてみれば、この悲しみは忽ち納得ゆく筈である。いい若い者が朝つぱらから一列一体お通夜のやうな顔をしてゐる。突然この人々の一団がお経のコーラスを始めても、ちつとも不思議はないのである。身体は全然隙だらけだし、足を踏まれると矢庭《やにわ》に牙をむいたやうな顔をして怒つたりするけれども、あれは心ある人間の為すべき顔付ではない。往来の犬や猫がああいふ場合にああいふ顔付をするのである。猛獣性と知的な鋭さは全くその性質を異にするものなのである。
 すべて体位向上などいふことも早起してラヂオ体操をせよとか日曜には喫茶店へ行かずハイキングをせよとか号令しても、なんにもならないものである。心に油断がなくなり、油断のならない心をもち、ヤと叫べばマと応じる神速機敏、微塵も隙といふもののない緊張を常々身心に秘めてゐれば、動作は自ら静を生じ、静かなること林の如く、自然礼節を生じて茶道小笠原流などの奥妙にも達し、しかも全身電波の如く気魄波打つ鋭利の人材となるのである。かくて自ら贅肉をそぎ、関節の動きは敏活柔軟となつて、体位自然に向上する。
 即ち神奈川県に一足這入れば、満員の電車といへども人々は整然と立並び、電車の震動と共に規則正しく揺れ、立並ぶ林の如くであるけれども、ひとたび彼等の眼付を見れば四方八方油断も隙もないことが分る。静寂である。無心の如くである。けれども現に彼等を乗せて走りつつある電車よりも複雑なる機構に充ち且又遥
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