からと言つて、貴殿が総理大臣を拝命したのは帝国の安泰を保証するためであり、借金取にビクともしない為ではなかつた。借金取の来襲にも悠々閑々たる心境など、ちつとも取柄はないのである。
且又《かつまた》金を貸した方の人物にしても、有余る金があるくせに、わづかばかりの貸金の期限が切れた瞬間から、破滅に瀕する大損害を蒙つたやうな幻覚を起し、はては犬畜生にも劣つた精神|陋劣《ろうれつ》佞奸《ねいかん》邪智の曲者などと病的な考にとらはれる。徒《いたずら》に催促の手紙を書いて息を切らせ、静かなるべき散歩の途中に地団太ふみ、あいつのうちの郵便函へ蝮を投込んでくれようかなど妄念にとらはれて不眠症となる。忽ち身体を弱くして、早死してしまふのである。
どつちを見てもひとつも碌なことはない。これ皆々借金なる一事が平和なる庶民の生活に妥当を欠くためである。
然しながら、屡々《しばしば》庶民の生活には不時の急場といふものがあり、無理算段の必要にせまられることがある。半生借金の魔手に悩まされ懊悩呻吟骨身に徹した人々は、そこで浅墓な考から、虎の子を抱いて賭場へ走り、競馬へ駈けつけ、かくて又、身を亡してしまふのである。
賭博や競馬といふものは順調に行つて二度に一度当るのが最大限のものである。相手の数が増すに従ひ、何十ぺんに一度になるやら、何万べんに一度になるやら、率は下る一方である。かく明々白々なる事実を強ひて忘却し、専ら偶然をたのみ、甚しきに至つては出発に先立つて先祖の位牌にぬかづき神前に拍手《かしわで》打ちならして戦勝を祈願しお守を腹巻に縫ひこんで女房よ笑顔で送れなどと言ふ。ただもう逆上して、一も二もなく虎の子をなくしてしまふ。
挙句の果てに賭場のあにいや予想屋にケチをつけてブン殴られ、鼻血を流し、前歯を折つてしまふのである。外套を質に入れてやうやく汽車の切符を買ひ正宗の二合壜に酔つ払つて我家へ帰り、みんな俺が悪かつた、許してくれよ女房殿などと浪花節であやまつてゐる。皆々愚劣の極である。
即ち斯様《かよう》な場合に自分は泥棒を働く。又世人も泥棒を働かねばならない。
泥棒は明朗健全なものである。盗んだ人士と盗まれた人士は全く面識がないから、適々路上ですれちがひ電車に並んで腰かけても感情を害すやうなことがない。どうぞお先になどと譲合つたり、風に吹飛ばされたカンカン帽をオットットなどと拾
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