をつないだり、一匹のなめくぢ風情に悲鳴をあげて井戸端会議に持越してゐる。所在なさに掴みあひの喧嘩はするし、女房子供の前でだけは世界で相当の人物のやうなことも言ふし、礼義節度といふものは影も形もとどめてゐなくて、腹蔵なく油断しあひ、いい気になつて人たるものの本分を忘れてゐる。精神見る影もなく弛緩して、身を亡してしまふのである。
 然るに彼等は夜と共に戸を閉ぢ窓を閉ぢることを忘れない。且又これに鍵をかけ、ネヂを差しこみ、閂《かんぬき》をかけることを怠ることがないのである。案ずるに、かく外界との交渉を遮断して益々油断に耽らうといふ魂胆にまぎれもないが、ひとつには、即ちこれ泥棒を要心する為に外ならない。
 然らば彼等は意識せずして女房子供以外の他人を信用せず、油断すべからざる所以を感知してゐるのである。折あらば秘かに金を盗もうとする人士の存在を知悉し、客席から猿臂《えんぴ》をのばしてハムマーで運転手を殴つたりピストルをぶつぱなす人士の存在を疑つてゐるわけではない。即ち彼等の認識は必ずしも根柢的に愚劣ではなく、時に正鵠を射てゐるものがあるのである。
 まつたくもつて、人間といふものは油断がならない。信用してはいけないのである。何を企らむか知れないのだし、凡そ彼等の企らみ得ない何物も在り得ないのである。人を殺す者もあれば火をつける者もある。盗みを働く者もあれば拾つた金を届ける者まである。その上謝礼の金は要らないなど言ふ者まである。なにがなにやら、をさをさ油断はできないのである。
 レストランのボーイなどにも油断は常に禁物である。変に狎れ狎れしいのがゐたり年中ブスブスして愛嬌のないのがゐたり色とりどり並んでゐるから心易く心得て、忽ちコップをひつくり返しいい気になつてテーブルを拭かせ料理の持参がおそいなどと喰つてかかつてゐるけれども、危険この上もない話であるから慎しまねばならないのである。忽ち毒薬を盛られ、椅子の下へひつくり返つて、すでにそれまでの人生である。又山だしの女中とあなどつて、気が利かないとか大間抜けだとかこのデクノボーなど勝手なことを怒鳴りちらしてゐるけれども、これ又慎しむ必要がある。山だしの女は殊の外復讐の念旺盛で、ただ一言の侮辱に対してすらめらめらと怒りをもやし、忽ち赤ん坊を殺害し、押入へ火をつけてしまふのである。
 常々平身低頭の下役に気を良くして腹蔵なく威張つて
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