は愉快なことではないけれども、拳闘の選手をライオンに並べませう。百メートルの選手を競馬の馬に並べませう。水泳選手を鮫にならべませう。ああ、厭だ、厭だ。不手際な団子のやうな胸だの腕、二節の蓮根のやうな腿や脛。ただもう醜怪極まれり、極まれり。徒に肥大硬化した無役な肉塊にすぎなくて、鈍重晦渋面をそむけしむるのである。野獣のやはらかな曲線なく、竹藪だに睨み伏せる気魄なく、知識の鋭さなど影もとどめてゐない。
 単的に言へば、あの肉塊は不自然畸形無智鈍感の見本であるが、あれを指して男性美の極致であるの健全なる肉体であるのとトンチンカンな御挨拶では、御愛嬌にもならないばかりか、不美を称揚する結果不当に人の世を醜化して世を乱し害《そこな》ふ惧《おそ》れがある。
 人間の筋骨は心の容器があくまで滲みでてゐなければいけない。いくら筋骨逞しくてもライオンと挌闘しては話にならないものであるし、二節の蓮根の足達者でも馬と並んで競馬場を一周すれば面目ないやうなものではないか。だから人間はライオンや馬の真似はなるべく慎しむ方がいいし、自慢の種にはならないのである。人間の筋骨は馬やライオンの有り方に似る必要はないのである。人間は人間らしくなければならず、一にも二にも知的なものでなければならぬ。
 自分はこの職業をやりだしてから精神も肉体も余程変つた。ただ隙だらけの凡くら相手のことだから張合がなく、それだけ修練もつまないわけだが、油断がないと言ふことは内臓諸器官を調整し直接容姿筋骨に好影響をもたらすものであることは、これだけの経験によつても証明することが出来るのである。
 恋人女房子供といへども油断がならぬ。又、油断をしてはならないのである。どんな時でも芯からデレデレすることは全くもつて不心得で、子供とあなどつてオシッコの世話に浮身をやつしてゐるといつのまに懐中の蟇口が紛失するか知れないことを常々忘れてはならないのである。
 かくすれば家庭生活も根柢的に変革され、豊富、快適なものとなる。
 元来一般の家庭生活といふものは、閾をまたいで外へ出ても隙だらけ油断だらけの分際で、尚その上に女房子供と特殊地域を設定して、ここでは唯もう油断の仕放第、デレ放第に沈湎し、いやが上にも厭世的に生きようといふ仕組なのである。押売などに顫《ふる》へあがつてこれを三日分ぐらゐの話題にし、こんなことを生甲斐にしてやうやく露命
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