ゐると、宴会の夜更けにビールの壜で後頭部を粉砕され、それまでの人生となつてしまふ。何食はぬ顔をしてバナナの皮をプラットホームへ投げすてておいて、人がひつくり返つて線路へ落ちて電車にひかれてしまふのを待ちかまへてゐる男もある。
人間は油断をしては敗北である。気をゆるめると、してやられる。鍵だの閂かけるだけではとても安心できないのである。各々の家は鋼鉄をもつて作り、暗号仕掛の鍵をかけ、秘密の地下道によつて警視庁や消防署や病院へ連絡しておかなければならないのである。
然るに彼等は夜が明けてラヂオ体操が始まりおみをつけの匂ひなど漂ひはじめる頃になると、忽ち大事の心得をみんな忘れて元の木阿弥になつてしまふ。
朝つぱらから電車の中で隣人の肩にもたれてグウグウ眠り、余念もなく新聞を読み、三分たてば次のバスが発車するのに無我夢中で走つて折から横手から疾走して来た自動車にひかれ、それまでの人生となつてしまふ。
会社へつけばオイ子供お茶をもてなど威張り返つてお湯がぬるいなど難癖《なんくせ》をつけ忽ち生涯の禍根をつくり、さて又相好くづして恋人の手を握つたりセンチなシャンソン唄つたり、夜ともなれば虎となつたり月を眺めて嘆息したり、全然筋道の立たない風に八方油断にふけつてゐる。
人間らしい利巧なところが全くないではないか。だから矢庭に首をしめられ、ハムマーで殴られ、ピストルでやられてしまふのである。
人を見たら泥棒と思へと昔の人は流石に見るところを見てゐる。女房子供、同盟国といへども決して油断があつてはならないのである。全然信用してはならぬ。彼等の企らみ得ない何事も在り得ないからである。
女房がネクタイ締めてくれる時にはそれとなくアッパーカットの身構を忘れてはならない。恋人と腕を組んで歩く時にはポケットへ蟇口を入れておくのは危険である。貴殿の女房が丸まげに結ひ簪《かんざし》さしてゐる時にはいかなる油断を見すましてこれを逆手に貴殿の脾腹や眼の玉をブスリとやるか知れないことを呉々《くれぐれ》も心得てゐなければならぬ。
かくすれば常に心身高々と緊張し、女房の動作は楚々として敏活となり、ふて寝などすることもなく、自然冗漫な線をはぶいて洗煉され、修養と共に綽々たる余裕も身について、全く魅力に富んだ女となるのである。これ皆々泥棒の余徳である。
自分は健全な国家に於ては、その首長たる者は
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