ソバだけ三十ではモウケもいくらにもならない。一家四人の口をしのぐことができなくなった。
「転業しなきゃア、もうやってけないよ」
「資本がねえや」
「だからさ。日に三百も五百も売れてたころに貯金しときゃアいいのに、文章の書き方、手紙の書き方、字引き、性の秘密なんて変テコな本ばかり買いこんでさ。もう人生案内はやめとくれ。ニコヨンにでもなって、せっせと稼いどくれ」
「ウーム。ニコヨンか。大繁昌の中華料理店が不景気でつぶれて死ぬかニコヨンになるか。妻子は飢えに泣く。これはいけるな」
「なに云ってるのよ。ボケナスめ!」
女房はすごい見幕で怒りだしたが、虎二郎はその言葉をよく耳にききとめ、ボケナスめと叫んで亭主を足蹴にし、ついに狂乱、庖丁を握りしめてブスリ……あわやというところで刃物をもぎとったが、女房の狂乱と悲しみ、それを見る亭主の胸つぶれる思い……てなことを腹の中で考えふけっている。
しかし実際問題として一家を餓死させるわけにはいかないから、いろいろ職を探したあげく、他に口がないから、まさに女房の腹立ちまぎれの言葉通りにニコヨンになってしまったのである。
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