然とされるにしても、そして又特に歴史の理解が必要であるにしても、言葉の成立の由来などが特に必要であるかどうか、その素養がなければ他の学問が理解できないものだとも思はれず、その素養が一つ欠けてゐるために我々の思想や生活がイビツになるといふ性質のものだとは思はれない。
言葉の歴史や由来は国語学者や、民族学者にまかせておいて、我々素人は必要なときいつでも知ることができるやうな手軽な案内書をつくつておいて、それで一応間に合ふやうにしてもらへれば、充分ぢやないかと考へてゐる。
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先日西日本新聞の座談会でこの問題がでたとき、林房雄が、オレは国語が便利になるのに反対するわけぢやないが、あんなカタワな細工物を天下り式に押しつけられては堪らぬ、強制が不愉快なんだと云つて、大いにイキマイテゐた。
僕もその説には賛成である。全然強制するのはイケないことだが、一応は案をつくつて、強制的な様式をとらなければ埒があかないといふことも事実である。案をつくつて、投げだしておいて、皆さんの好き勝手にしろ、それぢや、やつぱりいつまでも混乱するばかりで、うまくいかない。
だいたい、革命とか
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