ふ変な漢字をよく用ひるが、それは、これらの文字がたいがいヒラガナの十も十五も連続する時に使はれ易い字だからで、そんな時に漢字を入れると読み易くなるものなのである。漢字制限も、制限するのが主意ではなく、読み易くすることが主意でなければならぬ筈[#「筈」に丸傍点]であらうと思ふ。つまり、かういふ際の「筈」のやうに、こんな時に漢字なりカタカナなりを入れると、読み易くなるものなのである。
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右の場合と同じ意味で、新カナヅカイも、そのために、むしろ読みにくゝなつてゐる。先日の新聞に「覆ふ」が「おおおお」だといふ例がでてゐたが、なるほど、これは一面、カナヅカヒの罪ではなく、言葉のせゐだといへば、それもその通り。私もこんなのにぶつかると、「おおおお」などと書くかはりに「かぶせる」といふ別の言葉を自然に用ひる。昔の文章道の名人大家はノッピキナラヌ言葉などといふけれども、僕のは用を弁じて足りればよろしいタテマヘだから、こんな時にはアッサリ「カブセル」と変へて、すましたものだから、たいして驚きも困りもしない。
けれども「おおおお」が「かぶせる」で間に合ふやうに万端まに合つてくれゝばよろしいけれども、万事につけて、さう都合よく運ぶものではない。
私が新カナヅカイの委員の人々が、やりすぎた、といふのは、そこのところで、読みにくゝしてはいけない。
先づ第一に暫定的だといふけれども、相当決定的な御様子で、あんまり暫定的らしい面魂でもないのが第一の失策。いきなり大幅の変改をせず、半永久的な委員会をもうけて、常に少しづつ、変へて行く。変へるたびに、常に読み易く、覚え易く、便利になるやうに変へて行く。
第一回目の変へ方としては、「やう」と「よう」とか、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、語尾の「ふ」と「う」、「い」と「ひ」、「わ」と「は」、まアそんなところ、不勉強な書生が最も悩まされるあたりに就て、その見当で変へるのが第一だと思ふ。
私はカナヅカイも漢字もろくに知らない不勉強者だから、さういふツマラヌ心労や不満がよく分るのだが、委員諸家は学者方だから不勉強者の心事など御存知ないに相違ない。また、一般の作家、学者の方々も秀才に相違ないから、僕の不満反感に同情がないかも知れぬが、僕はどうも、「やう」だか「よう」だか、「ふ」だか「う」だか、「え」だか「ゑ」だか、そんな心労
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