が全然ムダ、ツマラヌものに思はれてたまらない。そんなものが分らなくとも文化の進歩にさしつかへがないばかりか、却つて大いに進歩に役立つ、ともかく時間の節約にはなる筈なのだ。
「ず」と「づ」だの、「お」と「を」だの、「ぢ」と「じ」だのと、これらの同音の文字は早急に一字にする必要はないと思ふ。同じ字が二つあつたつて、それを覚えるのに困りやしないぢやないか。たつた三字や四字のカナが多くならうと少くならうと、たゞそれだけの問題にすぎない。漢字を五字覚えるよりも、いと楽に覚えられ、そしてこれらの用法は我々の慣用の文章に我々を悩ますものではなく、ただ名詞や形容詞のふだん漢字で書いてゐるのにルビをふるやうな場合にだけ困却するだけの話、「ヲンナ」か「オンナ」か、こんな区別はどうだつていゝ。頭の方は「オ」、語尾の方のは「ヲ」と片づけてもよからう。
 早急に何から何まで変へない方がいゝ。変へたゝめに、すぐさま便利といふものだけを変へる。つまり変へる目的は常に「たゞちに簡単になる、良くなる」といふ主意によるものでなければならず、当分不便であらうけれどもといふのはよろしくない。
 つまり、我々はなぜ変へなければならぬか、即ち、今さしあたつて人々がそれに苦しみムダな労力を費してゐる、よつて変へる必要がある。よつて困つてゐない部分は変へる必要がない。変革といふものはその要領でなければならぬと私は思ふ。

          ★

 然し、私は文部省にきゝたい。なぜ新カナヅカイが必要なのか。便利にするため、ムダな労力を省くため、ムダな学問をなくするため、さういふ理由だらうと思ふ。
 然らば、教育の方針がその原則によつて一貫しなければならない。私の言ふことは「新カナヅカイ」や「制限漢字」によつて一貫しろといふのぢやなくて、ムダな労力を省くため、実質的な学問だけを身につけるため、その原則、その方針を、徹底的に実施しなければナンセンスだといふことである。
 私の家に同居してゐる人の娘に女学校三年生(今年からはどう呼ぶのかよく知らないが、今までの呼び方で三年生)がゐるが、去年二年の時から試験の時、時々僕のところへ国語をきゝにくるが、私には二年生の本が分らなかつた。徒然草もある、万葉もある、枕の草子もある、バカバカしい。
 こんな古典は、それの必要な専門の学生にだけ教へるべきものだ。先づ何よりも文部省は、日
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