は破壊によつて内包の増大を促し、建設の萌芽的役割を務めることによつて足りる。
文学は常に問題を提出する。文学そのものに解決はない。なぜなら人間の血と肉は歴史の終局に於て解決すべきものであつて、概念の中に解決すべきものでない。
現在プロレタリア文学は、その反逆的な闘争的な点に於て一つの意義と役割をもつが、人間を安易に仮定し、文学の唯一の領域たる個体を、血と肉に縁のない概念の中へ拉《らつ》し去り曖昧化し、科学への御用的役割を務めるのは凡そ意味ない。文学本来の面目に反してゐる。
現在ソヴィエト・ロシヤに於て文学に課せられた一つの課題は社会的な感情を探り出し書きあらわすことであるといふが、文学の反逆的な役割を巧に瞞着した為政者の手腕もさることながら、漠然として社会感情を探しあぐねるロシヤ作家のだらしなさは滑稽である。文学は永遠に政治に対する反逆である。個人のために血と肉の人間悲劇を語らなければならない。
日本のプロレタリア文学は一つの宣伝文として或ひは有効である。なぜなら科学と共力し妥協することによつて、一つの昂奮をもたらすことはできるから。しかしそれは文学本来の昂奮でなく、感銘でない。寧ろ完全に非文学的なものである。やがて政治の御用文学となるそれ[#「それ」に傍点]である。それはもはや文学でない。
(三)[#「(三)」は縦中横] そのものによる批判
芸術は反逆精神のあらわれであり、時代創造的な意志によつて出発し、同時に意義をもつものであることを述べた。
芸術は常に観念を変形せしめる。常に新らたな観念に拠つて出発する。
それ故、芸術の一作品は、他の作品に比較して批判さるべきものではない。古い観念に順《したが》つて批判してはならない。芸術は常にそれ自身として批判されねばならぬ。
一フランス人の言葉によれば、ラムプを批判するのに椅子の効用に順つて批判するのは滑稽であると。このラムプは腰かけることができない。それ故このラムプは良いラムプでないと言ふのは滑稽である。然し此の滑稽は、他の形に於て、我々の日常に極めて普通に横行してゐる。ラムプは常にラムプ自身の効用に順つて批判されねばならぬのである。
私は古い観念によつて私の作品が判断されることを好まないばかりでなく、私の作品を、古い観念を固執する人々におしつけやうとは決してしない。新らしい芸術は新らしい人々
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