まで「観念」であつて、言葉そのものではない。言葉、音、色彩 etc は芸術家にとつて単に当然な基本条件であつて、観念そのものゝ必然性に動かされぬ単なる言葉や形式は芸術活動以前に属する。単なる言葉や形式を問題にするが如きは芸術家に最大の恥辱である。
文学の真の新らしさは此の如き末梢的装飾によつて瞞着さるべきでない。同時に此の如き末梢的装飾を新らしさの全てと誤解し、軽卒に本質的な新しささへ背を向け去つた現下の現象は、これ又甚だ非文学的な現象と言はねばならぬ。なぜなら、「まことの新らしさ」は同時に文学の本質であるから。
年齢には年齢の、若さには若さの果実がある。そして時代に時代の果実がある。進歩と退歩に拘らず、全ては常に変化する。変化それ自らが常に厳然たる新らしさであるが、文学は変化の流れに押し流されるものではなく、時代創造的な「意志」によつて、変化に方向と意志を与へ得るものである。
(二)[#「(二)」は縦中横] 文学は常に反逆だ
文学の領域は言ふまでもなく個人である。個人を離れて文学は成り得ない。然し不滅の人間、不変のエゴは形而上学と共に亡び去つてゐる。我々の個人は変化の一過程に於て歴史に続き永遠につながる。然し文学は単に変化への、そして時代への追随ではない。変化に方向を与へる能動的な役割をなすものが文学であつて、時代創造的な意思なくして文学は成り立たぬ。社会は常に一つの組織の完成を意味し、科学的なものであるが、個人は常に破壊的、反社会的であり、文学的である。文学は科学の系統化に対して、個人の立場から反逆的な役割をなす。
由来、文化は個人生活の内容(幸福と言つてもいゝ)の減少を条件として出発し、進化する。かく圧迫を余儀なくせしめられた個人のために、その血と肉の人間悲劇を代弁し、反逆しうるものは文学である。文学は血と肉に彩られた文明批判の書である。科学に、社会に、問題を提出するものである。文学の立場からすれば、科学は文学以前のシステムにすぎない。
私の考へによれば、文学の作用は常に反逆的、闘争的、破壊的である。文学の精神は現実へ反撥する時代創造的な意思であると述べたが、時代創造的な意思は、文学に於ては反逆的、破壊的な形に於てあらわれる。進化の過程に於て個人は常に反社会的、即ち破壊的闘争的な形を示す。建設は常に社会的、科学的なものである。文学の破壊作用
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