くりかえそうとするとは! なるほど、一時的に、容易に安定をもとめるためには、それが便利であるかも知れぬ。然し、かかる安易は、罪悪である。こりることを知らないことは、罪悪である。
日本人は、こりることを知らないのだ。地震国だから、地震は、天災だという。地震に倒れない建築をたてれば、すむことではないか。何が、天災であるか。こりることを知らず、それに対処する努力と工夫を知らず、昔のまゝに、ほッたらかしておけば、天災は当然じゃないか。天皇制、又、然り。これも、亦、天災であるか。あさまし、悲し。天災などとは、文化がない、という意味だ。進歩も、工夫も、向上も、努力も知らない、ということだ。日本人は勤勉だと云う。焼跡を直ちに片づけ、再び直ちに、地震につぶれて火事に燃える家をシシとして、うむことなく、建てる。そんなのは、蟻と同じ勤勉ではないか。人間は虫であっては、いけないのだ。虫の如くに勤勉などゝは、何たる悲しいことであろうか。
蟻は、こりることを知らないかも知れないが、人間は、こりることを知り、再び愚をくりかえさぬ努力と工夫がなければならぬ。
安易にして便利な法を発案するのは悪いことではないが、工夫と努力によって簡便安易な法を見出すのではなく、無策の故に、又、努力と工夫がいらないために、安易簡便を利するのは、悪事である。無策とは、無責任ということで、その責任に堪えざることであり、無策の徒が、責任ある地位をけがすことは、罪悪である。
無策の故に、天皇制を利することは、あまりにも無責任、無智、無謀と云わねばならぬ。
これと同様の無策無謀のアラワレが、各種の弾圧、禁止である。エロ・グロの禁止、弾圧。禁止ぐらい、安易簡便な法はない。そして、禁止というものには、工夫と努力がミジンも必要とされず、禁止から、進歩発展が生れるということは、有り得ない。
軍人たちは、戦争中、弾圧、禁止を乱用したものだが、目に一丁字なき軍人がこれを行うのは、ともかく、文化国家と自称するものが、禁止の安易につくとは言語道断と云わねばならぬ。
エロ・グロを、芸術に高めるための、努力と工夫が大切なのである。さすれば裸レビュウの如きは、自然に場末の片隅へもぐりこまざるを得なくなるのだ。すべてが、禁止と反対の積極的な努力と工夫でなければならぬ。進歩向上というものは、そこからでなければ生れ得ず、禁止の法を用いる限り、安易について、蒙昧にとゞまることでしかないのである。その無能無策と、反文化的性格は、第一級の罪悪と云わねばならぬ。そして、禁止のもつ安易さは、反文化的性格と共に、専政的なものであり、同時に、軍人の、又、ファッショの性格でもあるのである。
かゝる専政的禁止の性格は、又、共産主義が持っている。政争の手段として闘争を看板にする共産主義は元々が軍人的好戦思想と、専政をタテマエにしているのであるが、彼らが現に弾圧されつゝあるにも拘らず、然し、彼らほど、やがて人を弾圧する性向を潜めているものはない。個人の自由や、人間性を尊重する慎しみ深さは、その根柢に失われているのである。
元来、共産主義の如くに、理想を知って、現実を知らず、その自らの反現実性に批判精神の欠如せるものは、専政、ファッショの徒に外ならぬのである。
敗戦、この無数の焼跡、これが直ちに復旧すべきものでないのは当然で、たとえ戦争に勝ったところで、復旧に年月を要することは明かだ。誰がやっても、この復旧、建設は、困難きわまる一大難事業である。かゝる非常の際の政策的なストの如きは最も慎むべきところ、フランスでは、共産政府がストを弾圧していたではないか。
私は、だいたい、ストライキという手段は、好きではない。社会生活に於ける闘争ということを好まないのだ。闘争ほど、社会の敵なる言葉はない。
私は、資本家(国家でもよい)と労働者の利益分配が生活の最も重大なものとなっている今日、簡単の労働法規というようなもので、この重大な生活問題を社会の片隅で処理しているのが間違いだと思う。
私は労働問題審判所というものを設け、最高裁判所、内閣、この二つと並べて、三位同格の最高機関とすべきだろうと思う。今日、裁判所に、地方、中央、完備した組織ある如く、労働問題の審判にも、全国に完備した組織をもち、これを公正、最高、絶対の機関とし、ストライキという好戦的な手段を社会生活から抹殺すべきだと思う。
賃金問題は今や個人の最大の生活問題となっているのに、これをストライキという如き素朴、好戦的な方法にゆだねて、合理的な機関を発明しないのは、不思議である。かゝる重大な生活問題を、不完全な調停機関で有耶無耶《うやむや》にして、結局ストライキに物を言わせるなどゝは、文化文明の恥と申すべきものである。法律及び裁判所と同格同位の組織と権力ある調停機構をもとむるのが当然ではないか。
現実に即して、今までには無かったが、然し、必要なる当然の組織や方策を、工夫し、発明して行かねばならぬ。文化とは、そういうものだ。政治とは、そういうものだ。現実に即して、工夫と発明の努力がなければならない。新しい工夫を欲しない蒙昧な保守性、こりることを知らず、虫の如く勤勉な、日本的反文化的性格をくずすことを知らねばならぬ。
非文化的な保守性というものは、逆に軽率なお先棒かつぎとなり、軽率な急進的外形を見せるものである。
たとえば、落語家が、戦争中は、軍部に迎合して、エロ落語を地下にうずめて塚を立て、いっぱし高座の上から、軍国的お説教をきかせて得々たるものであったが、民主主義になったら、エロを墓から掘りだし、代りに、殿様の落語は反民主的だと、これを墓に入れたという。こりることを知らないのである。これも亦蟻の勤勉と同じことで、焼跡へ、同じ家をつくるばかり、こゝにあるものは、進歩とあべこべの、根柢的な永遠の保守的反動的性格があるばかりである。
角力《すもう》が又、今年から、力士が座布団をやめて、ムシロの上へ坐っている。これから首を斬られる順番を待っているのじゃあるまいし、第一、見た目に汚らしいじゃないか。それぐらいなら、化粧マワシも、ついでに、チョンマゲもやめるがいい。いっそ、角力を、やめるがいゝや。土俵というものがあって、四本柱があって、そのマンナカに二人のふとった人間が組打ちして、そういう元々へンテコなものが存在する限り、それに附属するへンテコな行事や作法があるのは当然ではないか。角力とりが座布団の上へ坐っていたって、民主々義にさしつかえるワケはないのだ。
人間の生活権を保護するに、ストライキなどゝいう素朴な方法を公認する愚かさ、工夫、努力の足りなさは、まさに世界的奇観である。もっと、合理的な、もっと公正な方策を定める工夫がありそうなものだ。
私は戦争がきらいだから、ストライキも、きらいだ。子供のケンカじゃあるまいし、かりにも、文化国をもって任ずる以上、もっと合理的な手段がなければならぬ。ストライキの如き素朴、好戦的な方法を公認している限り、全世界に、まことの平和、まことの文化の行われる筈はない。
然し、たゞストライキを弾圧しても、ムリである。それに代るに、合理、公正な調停組織を完備し、法律と裁判が現に文化国に於て公正厳格に行われつゝあると全く同等の完備せる組織と実力を与え、国民の生活権を保護する合理的な施策を確立しなければならないのである。
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各人の自由と責任が確立すれば、戦争などは、この世から当然なくなる性質のものである。すべて文化の精神は、各人の自由ならびに責任の自覚の確立に向って進むべきものであるが、日本の文化運動には、その明確な地盤が自覚され、確立されておらない。文化団体の如きものに於てすら、官僚性や陰謀政治家性は横溢しているが、自由を愛する公正なる魂は失われているのである。
宗教も、言論も、自由でなければならぬ。排他的、禁止弾圧の精神は、暴力に異ならず、すでに戦争の精神である。共産主義に於ける経済理論はともかくとして、それに附随する排他的、独善的強圧精神は、それ自体反文化的暴力に異ならず、かゝる暴力性は、進歩的の反対で、最も原始的なものである。
事実に於て、共産主義は、進歩的、文化的な思想ではない。なぜなら、個の自覚がないからで、したがって、自由の自覚がないのである。戦争中の日本には、各人に配給はあったが、個の自由はなかった。富貴貧者に生活の差は殆どなかったが、そのようなところに、人間の楽園はあり得ない。個人の自由がなければ、人生はゼロに等しい。
何事も、人に押しつけてはならないものだ。看板をかかげるだけで、自由の選択にまかせなければならない。看板に偽りある時は、自らその責任をとらねばならぬ。
こんな女に誰がした、という無自覚、無責任な、反文化的魂が、いたずらに世相に反抗をもらしたところで、いかなる進歩が有りうるであろうか。こんな女に誰がした、というような無自覚、無責任な魂は、反抗などすべきでなく、どこまでゞも、こんな女にされて行くがよろしいのである。
私は、闘う、という言葉が許されてよろしい場合は、たゞ一つしかないことを信じている。それは、自由の確立、の場合である。もとより、自由にも限度がある。自由の確立と、正しい限界の発見のために、各人が各人の時代に於て、努力と工夫を払わねばならないものだ。歴史的な全人類のためにではなく、生きつゝある自分のために、又、自分と共に生きつゝある他人のために。そして、それが歴史的な全人類につながる唯一の道でもある。
個人に於けるが如く、国際間に於ても、各国家の自由の確立と正しい限度の発見は、最後の目的でなければならぬ。
多くの場合、戦争は、他国からの侵略に対して、自由の確立のために闘われてきた。日本は逆に他国を侵略し、その自由をふみにじって、今日のウキメを見たが、個人に於ける如く、国際間に於ても、かゝる侵略主義は、尚、跡を絶っていない。
私は然し、戦争の効能を認めているのである。なぜなら、戦争は、文化を交流させ、次第にその規模が全世界的となるに及んで、帰するところは単一国家となり、いくたびかの起伏の後に、やがて、最後の平和が訪れる筈であるからだ。
要するに、世界が単一国家にならなければ、ゴタゴタは絶え間がない。失地回復だの、民族の血の純潔だのと、ケチな垣のあるうちは、人間はバカになるばかりで、救われる時はない。
然し、武器の魔力が人間の空想を超えた以上、もはや、戦争などが、できるわけはないのだ。こゝに至っては、もう戦争をやめ、戦争が果してきた効能を、平和に、合理的な手段で、徐々に、正確に、果して行かなければならない。
国際間に於ては、戦争がある種の効能を果してきた如くに、各人の間に於ても、その各人の争いが、今日の法治国の秩序をきずいてきたのであった。
国際間に於ては、単一国家が平和の基礎であるに比し、各個人に於ては、家の問題の解決が、最後の問題となるのだろうと、私は考えているのである。
家も、又、垣の一つだ。何千年の人間の歴史が、この家の制度を今日まで伝承してきたからと云って、それだから、家の制度が合理であるとは云えない。
両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみだすものとして罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。
私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かゝる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。
もとより、現実の家の制度の牢乎《ろうこ》たる歴史の上では、本能も、人情も、ぬきがたい人間の実相の如く見えている。又、私が一人実験台にのぼってみたところで、数千年伝承してきた習性があって、一時にそれをどうすることができる
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