戦争論
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)因明《いんみょう》
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 戦争は人類に多くの利益をもたらしてくれた。それによって、民族や文化の交流も行われ、インドの因明《いんみょう》がアリストテレスの論理学となり、スピロヘーテンパリーダと共にタバコが大西洋を渡って、やがて全世界を侵略し、兵器の考案にうながされて、科学と文明の進歩はすゝみ、ついに今日、人間は原子エネルギーを支配するに至ったのである。
 多くの流血と一家離散と流民窮乏の犠牲を賭けて、然し、今日に至るまで、戦争が我々にもたらした利益は大きい。その戦争のもたらした利益と、各々の歴史の時間に人々がうけた被害と、そのいずれが大であるか、歴史という非情の世界に於ては、むしろその利益が大であったと云うべきであろう。
 百年の時間の後に於ては、我々も亦、非情なる歴史のなかの一員とならざるを得ない。しからば、人類の歴史的な立場に於ては、我々が一身の安危のために戦争を咒い避けるということは、許さるべきではないだろう。したがって、私がこゝに戦争論を弁ずることは、一身の安危によって、戦争にインネンをつけるワケではない。
 すべて、物事には、限度というものがある。時速三百キロをだしうる自動車も、東京都内に於ては、三〇キロでしか走ることを許されない。人は誰しも殺人の能力があるが、故なき殺人は許されない。各々のエネルギーには使用の限界があり、いわば、この限界の発見が文化とか文明というものであって、エネルギーの発見自体は、直接それが文化や文明とよばるべきものではないのである。
 原子エネルギーとても、同じことで、その使用の限界が発見、確定せられて、はじめて文化の一員となりうるにすぎない。
 今日に至るまで、ただひとり戦争のみが、この限界をハミダス特権を専有し、人間はそのエネルギーの総量をあげて人を殺すことを許され、原子エネルギーもその全量の最も有効なるバクハツ力を発揮することを許され、祈られることができた。
 日本交通史に於て、カゴや馬や人力車の時代までは、その全力をもって走ることを許されたが、自動車の時代に至って、速力に制限を受けざるを得なかった。その全力がもたらす効能よりも、制限がもたらす効能の方がより大であり、文明にかなっているからである。
 戦争とても同じことで、一九四五年八月六日のバクダン以前の各種の兵器のエネルギーは、まだしも、その被害よりも、利益の方が、人類の歴史的立場に於ては、大であったと私は思う。
 試みに、見たまえ。わが日本に於ては、このサンタンたる敗北、この焼野原、そして群盗の時代にも拘らず、戦争によって受けた利益は、非情なる歴史的観察に於ては、被害以上となる筈である。
 徳川以来、否、記紀時代以来からわだかまる独尊性や鎖国性に、ともかく、はじめて、正しい窓をあける機会を得た。まだ機会を得たというだけで、正しい窓はあけられていないけれども、この一つだけでも、日本史最大の利益であったと私は思う。
 かくの如くに、戦争の与える利益は甚大なものでもあるが、一九四五年八月六日のバクダン以後は、いさゝかならず、意味が違う。
 このバクダンのエネルギーの正体は、まだ我々には教えられていないが、俗間伝うるところによれば、八月六日や八月九日の比ではなく、一弾の投下によって、日本の一県、乃至、関東平野全域ぐらいに被害を与えることが出来そうな話であり、目下研究中の宇宙線というものが兵器化された場合には、原子バクダンは一挙に旧式兵器と化すほどの神通力があるそうである。
 私は今、神通力と申しのべた。我々の祖先は、そして、すべての人類が、魔法とか、神通力とか、忍術などを考えた。そこには、人間の空想が無限にのべられ、祈られていた。人は空をとびたいと祈った。孫悟空はキント雲にのり、役《えん》の小角《おづぬ》は雲にのり、自雷也《じらいや》はガマにのり、猿飛佐助は何にも乗らずドロンドロンと空を走った。然し、我々の飛行機は、その夢を実現し、今や音よりも速く空を走っているのである。
 エイと睨み、気合いをかけると、相手がバタリと倒れるという。そんなことは、なんですか。エイとヒキガネをひくだけで、相手の胸をぶちぬく。種子ヶ島の昔から、それぐらいの夢は、現実のものとなっていたのだ。
 ゴーレムが暴れ廻ってプラーグの街をひっくりかえしたところで、ジュウタン爆撃以上にはやれないだろう。
 まず大体に於て、人間の空想も、一九四五年八月六日のバクダン以前までは、科学とトコトンのところまで、行っていた。
 我々の祖先の無限の空想力といえども、その魔法、神通力、忍術のすべてをあげて、八月六日のバクダンを夢みてはいないのである。夢みることができなかったのだ。このバクダンに至って、そのエネルギーは、ついに空想をハミダシ、空想の限界を超えてしまったのである。
 筑紫なる梅のオトドが雷となって落ちたところで、せいぜい千ポンドバクダンぐらいのことだろう。筑紫一国、山の狸も、池のミミズに至るまで、ピカドンという一瞬に焼けてなくなるなどゝは、誰一人、夢想することも出来なかった。
 空想の限界を超えるに至っては、これはもはや人間のものではなく、まさしく悪魔の兇器である。それのもたらす被害は、当然利益よりも甚大であり、今日まで戦争がもたらした効能も、この悪魔のバクダン以後は、ついに被害を上廻ることは出来ないであろう。
 もとより、私の如上の計算は、科学的方法によって為されたものではない。然し、空想の限界を超す悪魔的エネルギーのもたらす被害と利益とその差如何、という如き、天文学的数字を一年間ひいたり、たしたり、したところで、出てくるものではなかろう。
 兵器の魔力が空想の限界を超すに至って、ついに戦争も、その限界に達したと見なければならない。
 兵器の魔力、こゝに至る。もはや、戦争をやってはならぬ。断々乎として、否、絶対に、もはや、戦争はやるべきではない。
 今まで戦争が我々にもたらした利益は、そして、今後も戦争が我々にもたらすと予想しうる利益は、これを戦争以外の方法に委譲する方策を立てねばならない。
 戦争が我々にもたらしたものは何か。文明の発達、文化の交流、そして、それが今後に於ては、世界単一国家となり、それが戦争の最後の収穫となるべき筈であったであろう。
 然し、もはや、ここに至って我々は、戦争の力に頼ってその収穫を待つことは許されない。他の平和的方法によって、そして長い時間を期して、徐々に、然し、正確に、その実現に進む以外に方策はない筈なのだ。なぜなら、兵器の魔力、ついに空想を超すに至ったからである。
 私は胸の思いに急ぎすぎて、結論を先に述べてしまったのである。

          ★

 今日、我々の身辺には、再び戦争の近づく気配が起りつゝある。国際情勢の上ばかりではなく、我々日本人の心の中に。
 国際情勢に対して、私の言うべき言葉は、すでに前章の短文に、つくされている筈である。私は、然し、さらに日本の同胞諸友に訴えなければならない。
 現在の日本は、戦争前のころ、否、日支事変のはじまりかけた頃よりも、さらに好戦的に見受けられる。
 日支事変の当初は、国民の多くは決して好戦的ではなく、軍部と一部の好戦者が声をからしているばかりであった。反戦的な庶民が駆り立てられて軍服を着せられ、戦地へ送られ、それでも兵隊になりきれず、庶民的な魂を失うことができずにいた。
 今日に於ては、人々は軍服をぬぎながら、そして、武器を放しながら、庶民的習性に帰るよりも、むしろ多くの軍人的習性をのこし、民主々義的な形態の上に軍国調や好戦癖を漂わしているのである。
 先ず第一に、天皇に対する人間的限界を超えた神格的崇拝の復活である。すでに帝国ではない民主国日本に於て、天長節の復活も奇怪であるが、天皇制というものが、国内統治の一時的な方便として便利であるというタテマエならば、これは大いに間違っている。
 私も、元来、政治に於ては、方便を是とするものである。政治に於ては、私は、極右も、極左も、とらない。もっとも、文学に於ては、そうではない。人間の生き方の究極というものを我が身に賭けて探してみても、所詮本人一人好きこのんでのことで、誰に迷惑がかゝるわけでもなく、自殺しようと、断食しようと、いゝではないか。
 政治はそういうものではない。その影響が直接全国民の生活にはたらいているのであるから、他人にかゝる迷惑というものを、最もつゝましい心で勘定に入れていなければならないものだ。
 人間というものは、五十年しか生きられないものだ。二度と生れるわけにはいかない。人間の歴史は尚無限に続き、常に人間は絶えなくとも、五十年しか生きられない人間と、歴史的に存在する人間一般とは違う。
 政治というものは、歴史的な人類に関係があるわけではなく、常に現実の、五十年しか生きられない人間の生活安定にのみ関係しているものである。
 政治というものは、常に現実をより良くしよう、然し、急速に、無理をして良くするのではなく、誰にも被害の少い方法を選んで、少しずつ、少しずつ、良くしようとすることで、こう変えれば、かなり理想的な社会になる、ということが分っていても、いきなりそれを実現すると、多数の人々に甚大な迷惑がかゝる、急いでは、ムリだ、と判断された時には、理想を抑えて、そこに近づく小さな変化、改良で満足すべきものである。
 我々の後なる時代に、各々の時代の人が、各々の時代を少しずつ住み良くして行く。人類永遠の平和などゝいうものを、我々が自分の手で完成しようなどゝは、後なる時代の人々、未来に対するボートクというもので、各時代に、各時代の人々が、その適当の向上改良を選定して行くところに、政治の正しい意味があると考える。
 私個人としては、先ず、大体に、アナーキズムが、やや理想に近い社会形態であると考えている。共産主義社会も、今ある日本の社会形態よりも、ましな形態であるのは分りきっている。然し、それを、いきなり実現しようとするのはムリだ。人類の善意と相互扶助による政府や役人のいらない社会などが、我々の理想社会として、最良のものであるのは分りきったことである。しかし、人間のすべてが賢人聖者となる以外に、かゝる理想の実現される筈もなく、又、すべての人間が、賢人聖者となりうる日が、ありうるか、どうかは、疑わしい。然し、かゝる最高の理想に向って、各時代の善意と努力をつくし、ムリをさけて、少しずつ、少しずつ、向上の歩みを怠らぬことは、政治に於て、最も望ましいことである。
 いわんや、革命とか、戦争などということは、一時的に、甚大な犠牲を強要するものである。
 私は、先に、戦争も、非情なる歴史的立場からは、むしろ効能の方が大きかった、と述べた。然し、これは、学者の研究室内に於ける真理であって、政治に於ては、真理ではない。なぜなら、政治は、歴史的な人間一般に属するものではなく、現実の五十年しか生きられない、非歴史的な生命や生活とのみ交渉しているものだからだ。真理や理想というものと、政治は、本来違っている。政治は、あくまで、現実のものであり、真理や理想へ向っての、極めて微々たる一段階であるに過ぎない。それ以上であっては、いけないのである。
 だから、政治に於ては、一時の方便的手段というものが、許されて然るべきものである。然し、天皇制の復活の如き場合は、まちがっている。
 方便の場合は、あくまで方便であり、それを利用して、次なる展開や向上をもとめているもので、あくまで、人間が方便を支配しているものなのである。ところが、天皇制の場合には、政府が方便のつもりでいても、民間に於ては狂信となり、再び愚かなる軍国暗黒時代となり、文化は地をはらい、方便が逆に人間を支配するに至る危険をはらんでいる。一人の人間を助けるために、多数の人間を殺す愚にひとしいものだ。
 天皇制というものを軍人が利用して、日本は今日の悲劇をまねいた。その失敗から、たった三年にして、性こりもなく、再び愚を
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