われつゝあると全く同等の完備せる組織と実力を与え、国民の生活権を保護する合理的な施策を確立しなければならないのである。
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各人の自由と責任が確立すれば、戦争などは、この世から当然なくなる性質のものである。すべて文化の精神は、各人の自由ならびに責任の自覚の確立に向って進むべきものであるが、日本の文化運動には、その明確な地盤が自覚され、確立されておらない。文化団体の如きものに於てすら、官僚性や陰謀政治家性は横溢しているが、自由を愛する公正なる魂は失われているのである。
宗教も、言論も、自由でなければならぬ。排他的、禁止弾圧の精神は、暴力に異ならず、すでに戦争の精神である。共産主義に於ける経済理論はともかくとして、それに附随する排他的、独善的強圧精神は、それ自体反文化的暴力に異ならず、かゝる暴力性は、進歩的の反対で、最も原始的なものである。
事実に於て、共産主義は、進歩的、文化的な思想ではない。なぜなら、個の自覚がないからで、したがって、自由の自覚がないのである。戦争中の日本には、各人に配給はあったが、個の自由はなかった。富貴貧者に生活の差は殆どなかったが、そのようなところに、人間の楽園はあり得ない。個人の自由がなければ、人生はゼロに等しい。
何事も、人に押しつけてはならないものだ。看板をかかげるだけで、自由の選択にまかせなければならない。看板に偽りある時は、自らその責任をとらねばならぬ。
こんな女に誰がした、という無自覚、無責任な、反文化的魂が、いたずらに世相に反抗をもらしたところで、いかなる進歩が有りうるであろうか。こんな女に誰がした、というような無自覚、無責任な魂は、反抗などすべきでなく、どこまでゞも、こんな女にされて行くがよろしいのである。
私は、闘う、という言葉が許されてよろしい場合は、たゞ一つしかないことを信じている。それは、自由の確立、の場合である。もとより、自由にも限度がある。自由の確立と、正しい限界の発見のために、各人が各人の時代に於て、努力と工夫を払わねばならないものだ。歴史的な全人類のためにではなく、生きつゝある自分のために、又、自分と共に生きつゝある他人のために。そして、それが歴史的な全人類につながる唯一の道でもある。
個人に於けるが如く、国際間に於ても、各国家の自由の確立と正しい限度の発見は、最後の目的でな
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