ければならぬ。
多くの場合、戦争は、他国からの侵略に対して、自由の確立のために闘われてきた。日本は逆に他国を侵略し、その自由をふみにじって、今日のウキメを見たが、個人に於ける如く、国際間に於ても、かゝる侵略主義は、尚、跡を絶っていない。
私は然し、戦争の効能を認めているのである。なぜなら、戦争は、文化を交流させ、次第にその規模が全世界的となるに及んで、帰するところは単一国家となり、いくたびかの起伏の後に、やがて、最後の平和が訪れる筈であるからだ。
要するに、世界が単一国家にならなければ、ゴタゴタは絶え間がない。失地回復だの、民族の血の純潔だのと、ケチな垣のあるうちは、人間はバカになるばかりで、救われる時はない。
然し、武器の魔力が人間の空想を超えた以上、もはや、戦争などが、できるわけはないのだ。こゝに至っては、もう戦争をやめ、戦争が果してきた効能を、平和に、合理的な手段で、徐々に、正確に、果して行かなければならない。
国際間に於ては、戦争がある種の効能を果してきた如くに、各人の間に於ても、その各人の争いが、今日の法治国の秩序をきずいてきたのであった。
国際間に於ては、単一国家が平和の基礎であるに比し、各個人に於ては、家の問題の解決が、最後の問題となるのだろうと、私は考えているのである。
家も、又、垣の一つだ。何千年の人間の歴史が、この家の制度を今日まで伝承してきたからと云って、それだから、家の制度が合理であるとは云えない。
両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみだすものとして罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。
私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かゝる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。
もとより、現実の家の制度の牢乎《ろうこ》たる歴史の上では、本能も、人情も、ぬきがたい人間の実相の如く見えている。又、私が一人実験台にのぼってみたところで、数千年伝承してきた習性があって、一時にそれをどうすることができる
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