もとむるのが当然ではないか。
現実に即して、今までには無かったが、然し、必要なる当然の組織や方策を、工夫し、発明して行かねばならぬ。文化とは、そういうものだ。政治とは、そういうものだ。現実に即して、工夫と発明の努力がなければならない。新しい工夫を欲しない蒙昧な保守性、こりることを知らず、虫の如く勤勉な、日本的反文化的性格をくずすことを知らねばならぬ。
非文化的な保守性というものは、逆に軽率なお先棒かつぎとなり、軽率な急進的外形を見せるものである。
たとえば、落語家が、戦争中は、軍部に迎合して、エロ落語を地下にうずめて塚を立て、いっぱし高座の上から、軍国的お説教をきかせて得々たるものであったが、民主主義になったら、エロを墓から掘りだし、代りに、殿様の落語は反民主的だと、これを墓に入れたという。こりることを知らないのである。これも亦蟻の勤勉と同じことで、焼跡へ、同じ家をつくるばかり、こゝにあるものは、進歩とあべこべの、根柢的な永遠の保守的反動的性格があるばかりである。
角力《すもう》が又、今年から、力士が座布団をやめて、ムシロの上へ坐っている。これから首を斬られる順番を待っているのじゃあるまいし、第一、見た目に汚らしいじゃないか。それぐらいなら、化粧マワシも、ついでに、チョンマゲもやめるがいい。いっそ、角力を、やめるがいゝや。土俵というものがあって、四本柱があって、そのマンナカに二人のふとった人間が組打ちして、そういう元々へンテコなものが存在する限り、それに附属するへンテコな行事や作法があるのは当然ではないか。角力とりが座布団の上へ坐っていたって、民主々義にさしつかえるワケはないのだ。
人間の生活権を保護するに、ストライキなどゝいう素朴な方法を公認する愚かさ、工夫、努力の足りなさは、まさに世界的奇観である。もっと、合理的な、もっと公正な方策を定める工夫がありそうなものだ。
私は戦争がきらいだから、ストライキも、きらいだ。子供のケンカじゃあるまいし、かりにも、文化国をもって任ずる以上、もっと合理的な手段がなければならぬ。ストライキの如き素朴、好戦的な方法を公認している限り、全世界に、まことの平和、まことの文化の行われる筈はない。
然し、たゞストライキを弾圧しても、ムリである。それに代るに、合理、公正な調停組織を完備し、法律と裁判が現に文化国に於て公正厳格に行
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